2024年10月6日

聖日礼拝メッセージ

大きな叫び声と涙
ー新約の恵み⑤
ヘブル人への手紙
5章1-14節

説教:竿代 照夫師

2024年9月29日

聖日礼拝メッセージ

(オープンチャーチ)

人生を前向きに考える
ヨハネの福音書
9章1-7節

説教:竿代 照夫師

2024年9月22日

聖日礼拝メッセージ(安食教会との合同

神の安息に入る道ー新約の恵み④
ヘブル人への手紙
4章1-16節

説教:竿代 照夫師

2024年9月15日

聖日礼拝メッセージ(教団謝恩日聖日)

柔らかい心で従うー新約の恵み③
ヘブル人への手紙
3章1-19節

説教:竿代 照夫師

2024年9月8日

聖日礼拝メッセージ

キリストの香りを放つクリスチャン生涯ーイエスに出会う⑧
ヨハネの福音書
12章1-8節

説教:島田 貴子師

2024年9月1日

聖日礼拝メッセージ

憐れみ深い忠実な大祭司ー新約の恵み②
ヘブル人への手紙
2章1-18節

説教:竿代 照夫師

2024年8月25日

聖日礼拝(安食教会との合同)メッセージ

神の最終的な語りかけー新約の恵み①
ヘブル人への手紙
1章1-14節

説教:竿代 照夫師

2024年8月18日

聖日礼拝メッセージ

善にはさとく、悪にはうとくー福音の力㉞
ローマ人への手紙
16章17-27節

説教:竿代 照夫師

2024年8月11日

聖日礼拝メッセージ

必要なことは一つ−イエスに出会う⑦
ルカの福音書10章38-42節

説教:島田 貴子師

2024年8月4日

聖日礼拝メッセージ

恵まれた信徒伝道者−福音の力㉝
ローマ人への手紙16章1-16節

説教:竿代 照夫師

2024年7月28日

聖日礼拝メッセージ

キリストの祝福に満ち溢れて−福音の力32
ローマ人への手紙15章22-33節

説教:竿代 照夫師

2024年7月21日

聖日礼拝メッセージ

異邦人の使徒パウロ−福音の力㉛
ローマ人への手紙15章14-21節

説教:竿代 照夫師

2024年7月14日

聖日礼拝メッセージ

下には永遠の腕がある
申命記33章26-29節
説教:島田 貴子師

2024年7月7日

聖日礼拝メッセージ

自分を喜ばせないー福音の力30
ローマ人への手紙15章1-13節
説教:竿代 照夫師

2024年6月30日

聖日礼拝メッセージ

お互いの霊的成長ー福音の力29
ローマ人への手紙14章13-23節
説教:竿代 照夫師

2024年6月23日

聖日礼拝メッセージ

(安食教会との合同)

弱い人を受け入れるー福音の力28
ローマ人への手紙14章1-12節
説教:竿代 照夫師

2024年6月16日

教会創立30周年礼拝メッセージ

教会を建て上げる
エペソ人への手紙4章1-16節
説教:北田 直人師(インマヌエル松戸教会)

2024年6月9日

聖日礼拝メッセージ


水がめを置いてーイエスに出会う⑥
ヨハネの福音書4章1-30 節
説教:島田 貴子師

2024年6月2日

聖日礼拝メッセージ


愛は律法の要求を満たすー福音の力27
ローマ人への手紙13章8-14 節
説教:竿代 照夫師

2024年5月26日

聖日礼拝メッセージ(安食教会との合同)


上に立つ権威に従うー福音の力26
ローマ人への手紙13章1-7 節
説教:竿代 照夫師

2024年5月19日

聖日(ペンテコステ)礼拝メッセージ


御霊による歩みーペンテコステを迎えて
ガラテヤ人への手紙5章16-26 節
説教:竿代 照夫師

2024年5月12日

聖日礼拝メッセージ


新しく生まれるーイエスに出会う⑤
ヨハネの福音書3章1-16 節
説教:島田 貴子師

2024年5月5日

聖日礼拝メッセージ


兄弟愛の実践ー福音の力25
ローマ人への手紙12章9-21節
説教:竿代 照夫師

2024年4月28日

聖日礼拝メッセージ

(安食教会との合同)

一つの体と多くの肢ー福音の力24
ローマ人への手紙12章3-8節
説教:竿代 照夫師

2024年4月21日

聖日礼拝メッセージ

献身の勧めー福音の力23
ローマ人への手紙12章1-2節
説教:竿代 照夫師

2024年4月14日

聖日礼拝メッセージ

目標を目指して
ピリピ人への手紙3章12-16節
説教:島田 貴子師

2024年4月7日

聖日礼拝メッセージ

心を燃やし給う神ーイースターを越えて
ルカの福音書24章13-35節
説教:竿代 照夫師

2024年3月31日

イースター聖日礼拝

メッセージ

私の主、私の神ーイエスに出会う④
ヨハネの福音書20章24-29節
説教:島田 貴子師

2024年3月24日聖日礼拝メッセージ

「赦しの恵みー受難週に入る」
ルカの福音書23章33ー43節
説教:竿代 照夫師

2024年3月17日聖日礼拝メッセージ

私たちの痛みを担われた主ー受難週の前に
イザヤ書53章
説教:竿代 照夫師

2024年3月10日聖日礼拝メッセージ

見えるようにしてくださいーイエスに出会う③
ルカの福音書18章35−43節
説教:島田 貴子師

2023年12月3日聖日礼拝

エッサイの根株からーキリスト誕生の預言

イザヤ書11章1−11節

説教:竿代 照夫師

3月14日聖日礼拝

「最も小さい者への奉仕―御国の福音⑩」
マタイの福音書25章31∼46節
説教:竿代照夫師


3月7日聖日礼拝

「祭司の王国②」
ヨハネの黙示録1章6節
説教:佐藤千恵師

2月28日 聖日礼拝

マタイの福音書25章1節~13節
「 花婿 を待つ娘たち―御国の福音⑨」
説教:竿代照夫師

2月21日 聖日礼拝

マタイの福音書22章1節~14節 
「 王子様の結婚披露宴―御国の福音⑧ 」
 説教:竿代照夫師

2月14日 聖日礼拝

マタイの福音書21章28-32節
「悔い改めた兄貴ー御国の福音⑦」
説教:竿代照夫師

2月7日 聖日礼拝

黙示録1章5~6節
「祭司の王国」
説教:佐藤千恵師

1月31日 聖日礼拝

マタイの福音書25章14~30節
「良い忠実なしもべー御国の福音⑥」
説教:竿代照夫師

1月24日 聖日礼拝

マタイの福音書20章1~16節
「『5時から男』の祝福ー御国の福音⑤」
説教:竿代照夫師

1月17日 聖日礼拝

マタイの福音書18章21~35節
「赦す恵みー御国の福音④」
説教:竿代照夫師

1月10日 聖日礼拝

 イザヤ書61章1~3節 
 「主の恵みの年―嘆きの代わりに喜びの油を」 
説教: 竿代照夫師 

10月11日 聖日礼拝

ルツ記4章9~12節
「贖いの保証ー信仰の報酬⑪」
説教:竿代照夫師

10月4日 聖日礼拝

黙示録1章4~5節
「恵みと平安があるように」
説教:佐藤千恵師

9月6日 聖日礼拝

黙示録1章1~3節
「幸いな人」
説教:佐藤千恵師

8月30日 聖日礼拝

ルツ記3章1~6節
「信仰をもって近づくー信仰の報酬⑦」
説教:竿代照夫師


8月23日 聖日礼拝

ルツ記2章18~23節
「贖い人の存在ー信仰の報酬⑥」
説教:竿代照夫師

収録の事情により8月16日の礼拝説教は配信していません。ご了承ください。

8月9日 聖日礼拝

ルツ記2章1~3節
「摂理の不思議ー信仰の報酬④」
説教:竿代照夫師


8月2日 聖日礼拝

ヘブル人への手紙12章1~3節
「御国に向かってー自分の前に置かれたレース」
説教:佐藤千恵師


7月26日 聖日礼拝

ルツ記1章19節~2章1節
「想定外の恵みー信仰の報酬③」
説教:竿代照夫師


7月19日聖日礼拝

ルツ記1章10節~18節
「信仰の決断ー信仰の報酬②」
説教:竿代照夫師

7月12日 聖日礼拝

ルツ記1章1節~9節
「闇の中の光ー信仰の報酬①」
説教:竿代照夫師

7月15日 祈祷会

テモテへの手紙第二2章
「避けるべきこと・求めるべきこと」
説教:林正弘師

7月8日 祈祷会

テモテへの手紙第一 1章
「パウロが見出した恵みとあわれみ」
説教:佐藤千恵師

7月5日 聖日礼拝

テサロニケ人への手紙第二 1章
「栄光を受けるために」
説教:佐藤千恵師


7月1日 祈祷会

テサロニケ人への手紙第一 1章~3章
「テサロニケ教会に与えられた祝福-奇跡的な成長」
説教:佐藤千恵師

6月28日 聖日礼拝

ガラテヤ人への手紙6章11~18節
「十字架を誇るー福音とは何か⑬」
説教:竿代照夫師

6月24日 祈祷会  

ピリピ人への手紙3章8節
「喜びの源ーキリストを得る幸い」
説教:佐藤千恵師

6月21日 聖日礼拝

ガラテヤ人への手紙 6章1~10節
「互いの重荷を負い合うー福音とは何か⑫」
説教:竿代照夫師

礼拝メッセージ 

わたしの霊を注ぐ 

2020.5.31

ヨエル2:12-17,28-32 

ご挨拶と祈り

新型コロナウイルスに関する緊急事態宣言が解除されて、今日から行徳駅前教会も集会が始まっていると思いますが、ご都合で参加できない方もおられますので、この録音メッセ-ジをお送りします。祈ります。「父なる神様、あなたのみ名を讃美致します。コロナの嵐がやや収まりつつありますが、なお予断を許さない状況が続いています。主よ、あなたが御手を伸ばし完全な収束が一刻も早く訪れますよう、関係者たちを励まして下さい。私たち行徳駅前教会も、まだ完全に元通りにはなっていませんが、皆が一堂に会する礼拝が早く持てますように、御手を動かしてください。主イエスの聖名によって祈ります。アーメン。」


はじめに:ペンテコステとは?

 今日・5月31日はペンテコステです。ペンテコステという言葉の意味は「第五十」です。イスラエルでは、早春の過越祭りから第五十日目に当たる日から一週間、麦の収穫の感謝を祝うお祭りを行いました。これがペンテコステです。教会暦では、イースターから50日目がペンテコステです。丁度この日、10日間の祈りを終えた12弟子とその仲間に、約束されていた聖霊が降り、弟子たちは新しい力に満たされて伝道を行い、一日で3千人が救われ、教会が誕生しました。

A.旧約時代の聖霊の働きと預言

1.創造における聖霊の働き

この聖霊の注ぎは突然起きた出来事ではなく、旧約聖書で予言され続けてきた予言の成就でした。そもそも、聖霊のお働きは創造の出来事にも述べられています。創世記1:2には「神の霊が水の面を動いていた」と記されていますし、人間の創造の時にも「いのちの息が」吹き込まれた(創世記2:7)と記されています。

2. 聖霊の限定的働き

それ以後も聖霊のお働きはずっと続いていました。ただキリストの贖いが成就するまでは、そのお働きは限定的でした。限定的というのは二つの面から見られます。

1))対象についての限定:その第一は、対象についての限定です。すべての人というよりは限られた人々に対して聖霊は働かれました。例えばダビデに聖霊が臨んだとき、サウルからは離れた、と記されています(1サムエル16:13,14)。

2)深さにおける限定:②その第二の側面は深さにおいてです。聖霊は、或る人に大きな力を与えることがあっても、その人の人格的改変に及ぶ例は少なかったのです。典型的な例はサムソンです。サムソンは御霊に満たされて子山羊を裂くのと同じくらい易しくライオンを引き裂いてしまいました(士師14:6)が、その力は、女性に弱いサムソンの道徳的性格を変えるまでには及んでいませんでした。

3.全ての人に深く及ぶとの預言

しかし、聖霊が全ての人に与えられ、しかも人格の深い所まで及ぶ働きがなされる時代が来ることが予言されていました。エゼキエルの予言を引用します。「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。」 (エゼキエル36:26、27)また、エゼキエルよりも遥か前に活躍したヨエルは、神が「わたしの霊を注ぐ」という予言を行っています。今日は、このヨエルの預言を取り上げます。

B.ヨエル預言の背景と内容

まず、ヨエル預言の背景とその内容に目を留めます。

1.ヨエルの時代

ヨエルの人と年代は明らかではありません。1:1に、父の名がペトエルと紹介されているだけです。ただ記されている預言の内容から判断して、BC830頃のユダ王国のヨアシの時代ではなかったかと思われます。

2.蝗の大発生:外敵到来の象徴として 

ヨエルの時代に、蝗の大被害(1:4)が発生し、イスラエルは痛めつけられました。蝗が大発生すると、空が暗くなるほどの蝗で覆われます。緑という緑、木の皮、着物さえも食い尽くされるそうです。今年ケニアで蝗の大発生が農業に深刻なダメージを与えたとテレビで報道されていました。蝗は馬鹿になりません。さて預言者は、蝗の大被害の中に、外敵(多分アッシリア)の来攻と侵略によるより恐ろしい危険(1:6、2:4、5)を感じ取りました。そのような災害は、神に対する不服従への刑罰、また、警告として与えられる、と預言者は言います。17節で「諸国の民の間で、『彼らの神はどこにいるのか』と言わせておいてよいのでしょうか。」という悲痛な叫びは、イスラエル民族が主に従わなかったことを物語っています。ところで、今私達の世界は多くの課題を抱えています。地球環境の破壊、大気汚染、温暖化、それらによって齎される飢饉などです。特に今年は、コロナウイルスの爆発的感染によって、人類史上稀にみるほどの人的・経済的被害を被っています。ヨエルの時代以上に、世界的リバイバルが必要とされています。

3.悔い改めの呼びかけと祝福の約束

この様な民族的危機にぶつかったヨエルは国民的悔い改めを説教し、悔い改めが齎す国民的な回復を予言しました。真実な悔い改めがなされるとき、神も思いを変えなさる(悔い改める)のです。ヨナの伝道を通してニネベが悔い改めたとき、神もご計画を変えなさいました。さて、そのような悔い改めがなされたらという前提で、ヨエルは先ず物質的祝福を約束しました。その物質的祝福とは、①豊かな収穫(19―27節=穀物、葡萄酒、牧草等、全ての農業分野で豊作が来る);②外敵からの守り(20節=北からの敵が撲滅される)です。しかし、その物質的祝福に勝る霊的祝福が約束されています。それが聖霊の注ぎです。

C. 聖霊が注がれる

ヨエル予言の中心である聖霊の注ぎについて、次のポイントを押さえたいと思います:

1.その対象:全ての人に

 聖霊の腑与は「すべての人」に約束されています(28節)。先ほど触れましたように、すべての人に聖霊が注がれる、という思想は旧約時代にはあまり見られません。民数記11:29には、モーセが「主の民がみな預言者となり、主が…ご自分の霊を与えられるとよいのに」と祈っているところがありますが、これは当時としては例外的考えでした。そのすべてを強調するために、息子、娘、老人、青年、男奴隷、女奴隷と、あらゆる立場、年齢、性別、社会的地位の人々が挙げられています。全く区別はありません。あるとすれば、真実に求めているかいないかだけです。「すべて主を呼び求めるものは救われる」と記されているからです。

2.その内容:注がれる=影響力の浸透

ヨエルは、聖霊が「注がれる」と予言しています。注ぐと言う行為は、聖霊のお働きが制限なく、豊かに私達に与えられることを意味します。僅かの分量が振りかけられるような祝福ではなく、南方のスコールのように全身が浸るほどの徹底的な満たしです。聖霊が心に注がれ、私達がその恵みに浸る、という祝福です。具体的にいえば、聖霊の思いが私達の思いとなり、聖霊の願いが私達の願いとなるまでに一体化することなのです。身近な例で言いますと、魚の粕漬けのようなものです。酒粕の旨味が、長い時間を掛けて魚の肉に浸って、得も言われないほどの美味となります。私達の性質が、御霊の感化によってひたひたに浸されて、得も言われないほどのキリストの美味となるのです。

その注ぎは、夢、幻、預言として表われます。夢、幻、預言に共通する要素は何でしょうか。それは、神のみ心が、曖昧な形ではなく、はっきりと示されることです。勿論、このような現象が文字通り成就したのは、ペンテコステに於いてでした(使徒2:16∼21)。この時、ペテロとその仲間達は、キリストの福音の素晴しさを、明確な言葉を持って、しかも大胆に語りました。そして、このような顕著な聖霊の注ぎは、教会歴史の中で繰り返されてきました。それをリバイバルと呼びます。18世紀のイギリスにおいてそれは大きな運動となりました。19世紀のアメリカにおいて、リバイバルは新しい国づくりに貢献しました。日本でも、プロテスタント宣教がなされた初期に、横浜で、札幌で、熊本でリバイバルが起きました。第二次大戦の前、ホーリネス教会を中心にリバイバルが起きました。そして、霊的に枯渇し切っている今こそ、その恵を最も必要としている時代ではないでしょうか。

3.その時:キリストの贖いの成就の後

 ヨエルは、「その後」とか「その日」と言っています。ヨエルが使い始めたと言われる「主の日」(主が顕著に働きなさる日)の事です。それは、キリストの誕生と奉仕に関わるものであり、キリストの再臨を指している場合もあり、多重的な要素をもっていました。

28節でヨエルは、「その後」私がその霊を注ぐ、と予言していますが、「その後」とは具体的に、キリストの来臨に関わる日のことです。特にヨエルのこの予言は、ペンテコステにおいて成就すべきものでありました。なぜそれまで待つ必要があったのでしょうか。それは、キリストによる贖いが歴史の中で実現しなければければならなかったからです。ヨハネ7:38、39に「イエスは未だ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかった」とあるのは、その事です。つまり、準備が整う為にペンテコステ迄待たなければならなかったのです。水道で水を注ぐ前に、配管工事がなされなければならないように、聖霊の注ぎの前に、救いの備えが十字架によって整えられねばなりませんでした。ペンテコステの50日前にキリストは十字架にかかって贖いを成し遂げ、復活によってその贖いを保証し、その40日後天に昇り、神の右に座すというインフラ整備を完了された後に聖霊が注がれました。その前でも後でもなく、丁度この日でなければならなかったのです。

4.その為の条件:真実な悔い改め(個人として、国民として)

聖霊の注ぎは、真実な悔い改めを条件とします。それが、12節にも知らされています。「悔い改め」(ヘブル語のシューブ)とは方向を変えることです。悔い改めとは、心、性格、思想、生活、行動における方向の転換です。神に背き、神を蔑ろにした心と行動を止めて、神を畏れ、神に従う心と生活に立ち返ることです。イスラエルの荒廃は、悔い改めによってのみ止められるのです。現代世界の荒廃も、私達の真実な悔い改めによって留められるのです。

悔い改めは、断食と涙と嘆き、つまり心からの悲しみを伴うものです(12、13節)。嘆きとは、自分の過去や現在の有様について深い申し分けなさを感じ、それを表わすことです。「着物ではなく、心を裂け」とは、形式的な「ごめんなさい」という言葉ではなく、どんな代価を払っても罪の償いをしますよ、という砕かれた心なのです。15-17節には、もっと詳しく、一人ひとりが真実に砕かれなさいと説くのです。ザアカイは、イエス様によって愛が示されたとき、自分の過去の過ちを具体的に償うように導かれ、実行しました。

その悔い改めは、個別的であり、同時に国民的なものでなければなりません。1:8∼13には個別的な断食、悔い改めが示唆されています。罪が一人一人から始まるように、悔い改めは一人一人から始まります。私は一体神の前にどのような心と生活をしているかと、心を探り、改めるところを改めましょう。2:15は、集合的悔い改めの勧告です。シオンで悔い改めの集会を開きなさい、誰も言い訳しないで、皆集まりなさい。というのがこの召集の強さです。新婚カップルも例外とはしませんよ、という所にその徹底した悔い改めの必要が伺えます。祭司も、老人も、子供も、若者も、すべての層が集まってこそ、集合的なのです。神の恵を乞い求め、神の大きな業を期待するには、皆が揃って神の前に出る、こういった真実な姿勢が必要なのです。すべての人に聖霊が注がれる前提は、すべての人の悔い改めです。この個別的かつ集合的悔い改めがなされる時初めて、全ての人への聖霊の注ぎが可能となるのです。

福音主義の立場から地球環境問題を真剣に取り上げ、多くの提言を行っておられる住田裕牧師は、この新型コロナウイルスの世界的感染の根本的原因について「それは、人の貪欲です。人の欲望は、開発・発展・繁栄という表現で拡大し、コントロールができないでいます。人は様々な地球環境問題を引き起こし、無制限な開発は秩序ある美しい、神を賛美している生態系を様々な理由で破壊し、細菌・ウイルスを呼び起こし、人をキヤリア―とし、細かく張り巡らした交通網により、瞬く間に全世界に拡散できるシステムを構築しました。ウイルスや感染性細菌は、この人の作ったルートに乗っているだけです。」そして今求められているのは、物質中心主義に対する悔い改めだと住田牧師は説いています。考えさせられる言葉です。


終りに

12節の「しかし、今でも」(英訳:Even now)という言葉の中に、望みが絶たれていない神の憐れみを見ます。どんな人でも、神の前に「手遅れ」ということはありません。望みを主に繋ぎましょう。国家についても、世界についても、個人についても、「しかし、今でも」という言葉によって望みを保ちましょう。今を逃してはなりません。今しなければ、取り返しのつかない結果が生じます。今という時を大切にしましょう。

祈ります。「神様、私たち人類は今、新型コロナウイルスの感染で苦しんでいます。この感染を通して語っておられる神様からのメッセージを一人一人が汲み取り、生活の在り方を一から立て直すことが出来ますよう祈ります。一人ひとりの心に、また教会全体に、そして世界中に、あなたの御霊が注がれ、新しく出直すことが出来るように導きと力を与えてください。主の聖名によって祈ります。アーメン。」

礼拝メッセージ

2020年5月24日
ガラテヤ人への手紙5章1節~15節


愛によって働く信仰―福音とは何か⑩ 

主題聖句

キリスト・イエスにあって大事なのは…愛によって働く信仰なのです。(ガラテヤ5:6)

行徳駅前教会の皆さん、おはようございます。5月も終わりに近づきました。皆さんと顔を合わせての礼拝が未だ許されていませんが、一つの御霊が私たちを結び付けてくださることを感謝しつつ、共に礼拝を捧げます。

お祈りします。
「父なる神様、あなたのみ名を讃美致します。コロナの禍が続いている中ではありますが、時を同じくし、心を一つにしてあなたのみ名を崇め、共に礼拝をお献げします。コロナの嵐が一刻も早く収まるようにお祈りいたします。私たち行徳駅前教会の小さな群れのそれぞれの戦いや課題について,折に叶う助けと恵みを表してください。主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン。」 

はじめに 

前回はガラテヤ5:1「キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」の聖言を中心に、「キリスト者の自由」についてお話ししました。その自由とは:①旧約聖書の儀式的な律法からの自由、②罪とその支配力からの自由、③何ものにも支配されない精神の自由であると説明しました。

パウロは、この素晴しい自由を奪う危険がガラテヤ教会に存在していると指摘します。今日は5章からその危険の中身を学びます。

Ⅰ.律法主義の危険(1~12節)

1~12節は、律法主義の危険を警告しています。これこそガラテヤ書が繰り返し述べている課題です。パウロは律法主義を「奴隷のくびき」、つまり、奴隷が逃げ出さないように首に括り付けられた重りと言っています。しっかり立たないと、このくびきに纏われるようになります。

1.割礼は律法の束縛の象徴(1∼4節)

「1 キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。2 よく聞いてください。私パウロがあなたがたに言います。もしあなたがたが割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに、何の益ももたらさないことになります。3 割礼を受けるすべての人に、もう一度はっきり言っておきます。そういう人には律法全体を行う義務があります。4 律法によって義と認められようとしているなら、あなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。」

 さて、1∼4節では割礼が律法の束縛の象徴だと厳しく責めています。2節に「あなたがたが割礼を受けるなら・・・」と仮定的な言い方をしていますが、これは、ガラテヤ信徒が、未だ割礼を受けていなかった事を示唆しています。今なら間に合う、とパウロは思ったのでしょう。割礼とは男性の性器の一部を切り取る儀式ですが、これがアブラハムに適用された時は、神の民となると言う契約の徴でした。それがイスラエル人一般に適用され、特に幼児期に行われるようになりました。異邦人がユダヤ教に帰依する場合には、成人の割礼が行われました。ガラテヤ信徒の場合は、割礼がユダヤ教への改宗の儀式となる事を意味していましたから、大問題だったのです。割礼を受けるとは、ユダヤ教の律法体系に組み込まれ、律法による救いを選択することを意味しました。

 パウロは、ガラテヤ信徒がキリストから離れてしまったと悲しんでいます。彼らはユダヤ教に完全に帰依する迄進んでいなかったものの、節期を守ることを通してユダヤ教に強く傾いていました。ユダヤ教の教師は「律法を守りつつクリスチャンであることは可能」と教えましたが、パウロは断固この妥協を拒否しました。2:4に戻りますが、そこでパウロはユダヤ主義者たちを「忍び込んだ偽兄弟達」と表現しています。読みましょう、「彼らは私たちを奴隷にしようとして、キリスト・イエスにあって私たちの持っている自由を狙って(つまり、自由を止め、自分の陣営に引き込む)忍び込んでいた」来たのです。

2.信仰によって生きる大切さ(5、6節)

「5 私たちは、義とされる望みの実現を、信仰により、御霊によって待ち望んでいるのですから。6 キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。」

5、6節は、信仰によって生きる大切さを強調します。日本語訳聖書では入っていませんが、5節を読みましょう。「私達は(つまり本当のクリスチャン)は、義とされる望みの実現(栄光の体に変化すること)を信仰により(行いを通してではなく)、御霊によって(人間の力によらず、御霊の力によって)待ち望んでいる」と言っています。そうならば、割礼は信仰生活において何の意味も持ちません。そこで意味を持つのは、6節「愛によって働く信仰」(愛に現れる信仰)だけだとパウロは言うのです。なぜなら、愛は律法の完成であり、その愛に現れるのが信仰だからです。その意味では、信仰は愛という律法を完成させる動力です。1テモテ1:5を開いてください。そこでパウロは、「偽りのない信仰から生まれる愛」が目標と述べています。5章に戻りますが、6節が言っている「愛によって働く信仰」とは、「愛が原動力となって働いている信仰」という意味ではなく「愛という道筋を通して働き出る信仰」という意味です。この思想は13∼15節で更に詳しく論じられます。

3.偽りの教師達の災い(7~12節)

 「7 あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたの邪魔をして、真理に従わないようにさせたのですか。8 そのような説得は、あなたがたを召された方から出たものではありません。9 わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませるのです。10 あなたがたが別の考えを持つことは決してないと、私は主にあって確信しています。しかし、あなたがたを動揺させる者は、だれであろうと、さばきを受けます。11 兄弟たち。もし私が今でも割礼を宣べ伝えているなら、どうして今なお迫害を受けているのですか。それを宣べ伝えているなら、十字架のつまずきはなくなっているはずです。12 あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと切除してしまえばよいのです。」

7~12節で、偽りの教師達の災いが宣告されます。7節に「良く走っていた」と言って、パウロはガラテヤ信徒の過去の信仰生活を評価します。そのガラテヤ信徒を「真理に従わなくさせた」のは律法主義者です。彼等はガラテヤ信徒を自分達の流儀に従うように説得しました。9節で彼らのことを「パン種」に譬えています。僅かのイースト菌がパン全体を膨らましてしまうように、律法主義者の教えは、その一部を受け入れたとしても、福音の原則を大きく損なうものだと言うのです。先ほども申し上げましたように、パウロはガラテヤ信徒がまだ回復可能であると信じていました。その期待が10節に現れています。「あなたがたが別の考えを持つことは決してないと…確信しています」と言って、この手紙が彼らを回復させると信じていたのでしょう。

一方、そのガラテヤ信徒を乱す者は「裁きを受ける」のが当然です。パウロは12節ではもっと強く「切除してしまえ」(文字通りには、去勢してしまえ)と宣告しています。クリスチャンらしくない物言いのようですが、それほど福音の真理を意図的に損なう者の受ける裁きは大きいと言うのです。

Ⅱ.放縦(自由の履き違え)の危険(13~15節)

「13 兄弟達。あなた方は自由を与えられる為に召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。14 律法全体は、『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という一つの言葉で全うされるのです。15 気をつけなさい。互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます。」

1.放縦は自由のはき違え

クリスチャンの自由を損なう第二の危険は、放縦、つまり「いい加減主義」です。それを警戒しているのが13∼15節です。13節でパウロは、「自由を肉の働く機会としないで…」と言いつつ、自由という言葉が独り歩きして「何をして構わない」とでたらめな生き方を主張する人も警戒しています。先週私は、「こうせニャアならん」「ああせニャアならん」と自分で自分を縛るクリスチャンのことを「猫クリスチャン」と表現しましたら、「じゃあ、その反対は何の動物に譬えられるのか?」という質問を受けました。一週間考えて思い付いた生き物は「くらげ」です。骨も筋も一切なく、その時その時の流れに身を任せて生きる原理原則を持たない「いい加減クリスチャン」を指します。パウロはこれを戒めるのに、何かによって縛り付けるという後ろ向きの方法を取らず、前向きに愛の原理を強調します。6節では、「愛を通して働く信仰」と語り、ここでは「愛に現れる信仰」と少しニュアンスを変えます。

2.愛に現れない「信仰」とは?

実際、愛に現れない「信仰」ってあるのでしょうか。ヤコブは、それを頭の信仰と呼んでいます。正しい教理を頷き、キリストが救い主であると賛成しますが、何の行動の変化も起きていない人々です。ヤコブ2を見ると、そのような「クリスチャン」の姿が描かれています。14~17節を飛び読みします。「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、『安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。』と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」と言っています。

3.信仰から湧き出てくる愛

 しかし、自分の弱さを本当に認めて、キリストとその救いに対して全面的により頼み、主への信仰を言い表しますと、不思議な事が起きます。それは、聖霊によって神の愛が私達の心に注がれるのです(ローマ5:5)。自分の力では愛せなくても、愛することが出来るようになるのです。僕として、互いに仕え合う力が与えられるのです。その結果、「自分のようにあなたの隣人を愛しなさい」という命令が、頑張らずにできるようになるのです。逆に言えば、15節に描写されているような「互いにかみつき合ったり、食い合う」と言う状態は本当の信仰の欠如から来ているのです。

 愛は律法の要約です。レビ19章には、極めて実際的な隣人に対する愛の行いが要求されています。9~17節を飛び読みします、「あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない。…盗んではならない。欺いてはならない。互いに偽ってはならない。…あなたの隣人を虐げてはならない。掠めてはならない。…あなたは耳の聞こえない者を侮ってはならない。目の見えない者の前に躓く物を置いてはならない。あなたの神を恐れなさい。私は主である。…復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。」という実際的な隣人愛の命令があって、18節がその全体の締め括りとして「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。私は主である。」となっているのです。その意味で、愛が律法の要約なのです。律法のこの決まりを守ろう、あの決まりを守ろうという努力ではなくて、本当の意味で信仰に生きると愛が湧き出てきます。そして隣人を愛する事によって律法を実行してしまっている自分をみいだすのです。これこそが信仰の勝利です。

オランダ人女性のコーリー・テンブームさんの証を読んだことがあります。この人は、先の戦争中、ユダヤ人を匿った罪で収容所に入れられ、お姉さんと一緒に筆舌に尽くし難い苦労を味わいました。お姉さんは収容所で亡くなり、コーリーさんは生き延びて収容所を出、そこで経験した恵みを証しする伝道者になりました。日本にも来たことがあります。そのコーリーさんが或る教会で証をしていた所、その聴衆に収容所で彼女たちを厳しく苛めた元所員がいるのを見つけました。集会が終わって一人一人と握手する段階になって、その男も握手を求めて近づいてきました。コーリーさんの手がどうしても前に出ないのです。復讐したいという気持ちさえ湧き上がってきました。「イエス様、私を赦し、私がこの人を赦して上げられるように助けてください。」と祈りましたが、笑顔を作ろうと思っても顔がこわばっているのに気づきました。その時コーリーさんはもう一度祈りました「主よ。私はこの人を赦すことが出来ません。どうかあなたの赦しを私に与えてください。」その時、コーリーさんの肩から腕、それから手先にかけて、電流が走り、彼に伝わっていくように感じました。コーリーさんの心には、この意地悪だった人への愛が溢れ、圧倒されるほどでした。主に対する信仰、それこそが愛の動力なのです。

おわりに

互いに仕えることを学ぶ最も格好な場所が教会です。ここで愛の訓練を頂き、教会の外にもこれを広めて行きたいものです。新約聖書には「互いに」という言葉が沢山出てきます。互いに愛し合い、仕え合い、互いに自分よりも勝るものと思い、互いに尊敬し、互いに祈り合い、互いに受け入れ、互いに赦し合い、互いに励まし、互いに従い合うのです。誰か偉い人に従うのではなく、互いに従うのが教会です。この愛に、もっともっと進歩したいものです。聖霊の助けを期待し、導きに従う生き方の結実として、私達は愛における成長を期待しようではありませんか。

祈ります。
「主よ、私は愛の乏しいものです。ですからこそ、あなたの救いを信じ、あなたにより頼みます。あなたの愛を私に注ぎ、全ての人を愛する人間に私を変えてください。主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン。」

礼拝メッセージ

2020年5月17日
ガラテヤ人への手紙4章21節1~5章1節


キリストによる自由―福音とは何か⑨ 

21 律法の下にいたいと思う人たち、私に答えてください。あなた方は律法の言うことを聞かないのですか。
22 アブラハムには二人の息子がいて、一人は女奴隷から、一人は自由の女から生まれた、と書かれています。
23 女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由の女の子は約束によって生まれました。
24 ここには比喩的な意味があります。この女たちは二つの契約を表しています。一方はシナイ山から出ていて、奴隷となる子を産みます。それはハガルのことです。
25 このハガルは、アラビアにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、彼女の子らとともに奴隷となっているからです。
26 しかし、上にあるエルサレムは自由の女であり、私達の母です。
27 なぜなら、こう書いてあるからです。「子を産まない不妊の女よ、喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ、喜び叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ。」
28 兄弟たち、あなた方はイサクのように約束の子どもです。
29 けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりになっています。
30 しかし、聖書は何と言っていますか。「女奴隷とその子どもを追い出してください。女奴隷の子どもは、決して自由の女の子どもとともに相続すべきではないのです。」

31 こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。
5:1キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」



はじめに

前回はガラテヤ4: 19「あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」というパウロの言葉から、クリスチャン生活の輝かしいゴールである「キリストの形成ること」と、それに向かって苦心しているパウロ、その為に呻くように祈っていて下さる聖霊について学びました。

今日のテーマは「キリスト者の自由」です。キリスト者の自由については、まずイサクとイシマエルというアブラハムの二人の息子の譬えで語られ、その譬えの後、高らかに自由の宣言がなされます。

 

A.イサクとイシマエルの譬え(21~31節)

4章の後半で、アブラハムの二人の子ども、イサクとイシマエルの話が出てきますが、これはあくまで譬え話であって、この二人の人物の実像とは関わりがありません。詳しい説明は省略して、パウロの言おうとしていることを5つのポイントに絞りました。

1.母親の違い

第一の比較は、母親の違いについてです。イサクは正妻であるサラから生まれ、イシマエルは側女であるハガルから生まれました。22節を読みます、「アブラハムには二人の息子がいて、一人は女奴隷から、一人は自由の女から生まれた、と書かれています。」パウロは、いわゆる差別的意味での違いを言っているのではなく、二人の女性の立場の違いに目を留めているのです。サラは自由人、ハガルは奴隷でした。このことから、二人の子どもも、片方は自由人、他方は奴隷的立場の人、と立場の違いを見るのです。

2.生まれ方の違い

 もう一つの比較は、生まれ方の違いです。23節「女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由の女の子は約束によって生まれました。」イシマエルは、ごく自然的な、聖書的表現によれば「肉によって」生まれました。イサクは神の約束の成就として、不妊の女性から奇跡的に誕生しました。

3.二つの契約の違い

 この二人の母は二つの契約の象徴だ、とパウロは言います。24節、「この女たちは二つの契約を表しています。一方はシナイ山から出ていて、奴隷となる子を産みます。それはハガルのことです。」つまり、ハガルはシナイ山で与えられた律法の象徴です。一方、サラについては26節「しかし、上にあるエルサレムは自由の女であり、私達の母です。」と自由を齎す契約、つまり、新約の福音の象徴というのです。自由の女の子どもイサクはキリストの福音を象徴し、奴隷の女の子どもイシマエルは律法を象徴しているとパウロは議論を進めます。ちょっと話が飛躍しているように見えますが、これは飽くまでも譬えとしての解釈です。詳しく言いますと、新しい契約(つまり福音)によって救われたクリスチャンと古い契約(つまり律法)によって縛られているユダヤ主義者とを対比しているのです。28節には「兄弟たち、あなた方はイサクのように約束の子どもです。」と言って譬えを締めくくります。

4.二人の関係

二人の子ども同士の関係はどうでしょうか。29節「あのとき、肉によって生まれた者(イシマエル)が、御霊によって生まれた者(イサク)を迫害したように、今もそのとおりになっています。」と言って、イシマエルがイサクを苛めたことに言及します。苛めたイシマエルは追放され、イサクがアブラハムの後継者となりました。そのように、今ユダヤ主義者たちはクリスチャンを苛めていますが、クリスチャンこそアブラハムの祝福を受け継ぐ者となる、というのです。

5.律法と福音

律法と福音の関係に話が戻ります。31節「こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」これがパウロの結論です。救いについて妥協点はあり得ません。一つが立てば他は除かれます。信仰による救いが容れられれば、行いによる救いは放棄されねばなりません。

 

B.自由宣言(5:1)

ここまでやや複雑な議論がなされてきましたが、パウロが言おうとしているまとめが5:1です。読みます、「キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」これは、キリストの与える自由についての力強い宣言です。更にこの宣言には、「再び奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」という強い命令が伴います。

アメリカの大統領エイブラハム・リンカーンは、南北戦争中の1863年1月1日、「奴隷として所有されている全ての人びとは、自由であり、また以後自由であるべきことを、私はここに命令し宣言する。」という奴隷解放宣言を発表しました。そして、この宣言は、南北戦争の勝利によって実現されました。パウロの宣言は、正に霊的な奴隷解放宣言ということができます。

この宣言から、キリスト者の自由とは何からの自由なのかを学びます。

1.律法の束縛からの自由

 キリスト者の自由とは、第一に律法の束縛からの自由です。ガラテヤ信徒は、律法主義者の教えに影響を受けて、旧約聖書に記されているユダヤ教の宗教行事カレンダーを守り始めていました。パウロは言います、「今では神を知っているのに・・・どうして弱くて貧弱な、もろもろの霊に逆戻りして、もう一度改めて奴隷になりたいと願うのですか。あなたがたは、いろいろな日、月、季節、年を守っています。」(4:9~10)と。これは単にカレンダーの問題ではなく、その根底にある思想、つまり、行いを通して救われるというユダヤ主義者の教えへの賛同を意味していました。ですからコロサイの手紙で、キリストの十字架が律法の束縛を完全に除いてくださったと宣言しているのです。「あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。・・・私たちのすべての背きを赦し、私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。」(コロサイ2:12~14)

現代のクリスチャンに当てはめますと、「クリスチャンだから、こうせニャアならん。ああせニャアならん。」とニャアニャア言いながら自分で自分を縛っている状態を指します。こういうのを猫クリスチャンと言います。これでは苦しいですね。キリストの十字架は「これをせニャアあれをせニャア」という縛りから解放し、自由に伸び伸びと生きる道を可能にしてくださいました。

2.罪からの自由

キリスト者の自由とは、第二に罪からの自由です。律法に縛られるということは、律法思想の基である罪に束縛されることです。キリストの恵みは、罪からの釈放です。「キリスト・イエスにある命の御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。」(ローマ8:2)とパウロが言っているのはこのことです。主イエスも、キリストを知る真理が私達を自由にすると宣言されました、「あなたがたは真理を知り、真理はあなた方を自由にします。・・・罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。・・・子(キリスト)があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。」(ヨハネ8:32~34)と。

私たちは誰も好き好んで罪を犯すわけではありません。これはまずいなと思いながら、引きずられてしまうのです。つまり罪の奴隷です。Aさんという人の証を聞いたことがあります。Aさんは収入も少なく、奥さんに日雇いのアルバイトをして貰って、やっと生計を立てていました。ですから、給料日になると「今日こそは、封を切らない給料袋をカアチャンに渡すぞ」と決心するのが常でした。しかし、会社を出て家に帰る途中、赤提灯の前を通ると、足が自然にカーブしてそっちへ向かい、気が付くと給料の相当部分を使ってしまい、後悔の思いを持って家に帰った、そんなことを繰り返していました。しかし、Aさんの幼い娘さんが教会に通うようになり、奥さんも通うようになって、自分も恐る恐る教会の門を潜り、救われました。赤提灯の誘惑からも自由になったそうです。

3.あらゆる束縛からの自由

キリスト者の自由とは、究極的に、あらゆる束縛からの自由です。主イエスはそのご奉仕の初めに「主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を・・・虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。」(ルカ4:18~19)と宣言されました。パウロも、聖霊が与える自由についてこう語っています、「主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(2コリント3:17~19)私たちはあらゆる束縛から解放されて、自由の霊をもって主に仕えることが出来るのです。

 

おわりに

 終わりたいと思います。クリスチャンとは、あれはだめ、これをしなさいという規則の塊に生きている人間だと思っている人がいれば、それは大きな誤解です。誰からも、どんな決まりにも縛られず、自分で自分を縛ることもなく、大空を飛ぶ鳥のように、風に乗って自由に動き回ることが出来るのです。その風とは、聖霊の風、キリストの恵みの風です。しっかりと私たちの帆を上げて、恵みの風に委ねて生きて行きましょう。

私の伯父は、厳格なクリスチャンホームに育ちながら放蕩な生活をし、教会に戻って救われました。その伯父が救いの確信を得た時に、こんな詩を作りました:

信仰生涯を航海にたとえれば

片帆(船の片側の帆)を上げて自ら思った所に行くにあらずして

真帆(船についている全部の帆)を上げて恵みの風のままに前進すること

この真理を教えられ

一切を船長なる主に委ねて出帆す

 

キリストは、その贖いを通して、私たちに全き自由を与えてくださいました。それを感謝して受け止めましょう。先ほどの讃美歌「なぜこの私に」の4節で、「自由な心で主に従い行く」と歌いましたが、自由な心で主にお仕えしましょう。

お祈りします。「父なる神様。あなたは、御子キリストを世に遣わし、全き贖いをなし遂げてくださいました。その贖いのゆえに、全く自由の身とされたことを感謝します。この自由を、何物かによって束縛されず、自由な気持ちであなたに仕えるものとしてください。主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン」

礼拝メッセージ

2020年5月10日
ガラテヤ人への手紙4章11∼20節

キリストの形成る迄―福音とは何か⑧ 

はじめに

前回はガラテヤ4:4の「時が満ちて」という言葉の深い意味を思い巡らしました。神は、人類の救いに関して、また私達一人々々の人生に関して、確かなご計画を持ち、その実現に向かって世界を動かしておられる事実を学びました。

今日は、素晴らしい救いを得ていながら、信仰の本筋から逸れてしまったガラテヤ信徒たちへの警告と祈りについて学びます。

 

Ⅰ.パウロの心配(11∼18節):福音から逸れたガラテヤ信徒

11 私は、あなた方のために労したことが無駄になったのではないかと、あなた方のことを心配しています。
12 兄弟たち、あなた方に願います。私もあなたがたのようになったのですから、あなたがたも私のようになってください。あなたがたは私に悪いことを何一つしていません。
13 あなたがたが知っているとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした。
14 そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり嫌悪したりせず、かえって、私を神の御使いであるかのように、キリスト・イエスであるかのように、受け入れてくれました。
15 それなのに、あなたがたの幸いは、今どこにあるのですか。私はあなたがたのために証ししますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出して私に与えようとさえしたのです。

16 それでは、私はあなたがたに真理を語ったために、あなたがたの敵になったのでしょうか。
17 あの人たちはあなたがたに対して熱心ですが、それは善意からではありません。彼らはあなたがたを私から引き離して、自分たちに熱心にならせようとしているのです。
18 善意から熱心に慕われるのは、いつでも良いことです。それは、私があなたがたと一緒にいる時だけではありません。

今日の聖書箇所の前半、11∼18節は、福音から逸れてしまったガラテヤ信徒に対するパウロの心配を述べています。

1.「福音から逸れた」内容(11∼12節)

11節を読みましょう、「私は、あなた方のために労したことが無駄になったのではないかと、あなた方のことを心配しています。」ここでの心配は、かつて素晴らしかったガラテヤ信徒が、今は福音から逸れてしまっていることに対してなのです。パウロの宣べ伝えた福音を単純に信じたガラテヤ信徒たちが律法主義者たちに惑わされて、信仰から墜ちてしまった、或いは、墜ちそうになっていたことを心配しているのです。9節の表現では、ガラテヤ信徒たちが「弱くて貧弱なもろもろの霊に逆戻りして…奴隷となる」道を選んだと言っています。普通私達が「あの人は信仰から墜ちてしまった」と言う場合「彼は昔のように大酒呑みになった」とか「ふしだらな生活に戻った」というイメージで考えます。しかし、ガラテヤ信徒の場合には、誰の目にも分かるような信仰の逸脱ではなく、もっと微妙な問題なのです。それだけに厄介です。つまり、教会には通い、奉仕も真面目に行い、その生活ぶりも真面目だ、しかし大切な信仰原則からずれている、といった逸脱なのです。

12節で、パウロはガラテヤ信徒が彼の信仰に倣うことを願っています。パウロは、自分がユダヤ人でありながら異邦人と同じような生活をして「あなた方ガラテヤ人と一体化しようとした」と言います。私と同じように、あなたがたも律法から自由な生き方をしなさい、とパウロは勧めています。

2.ラブラブだった昔(13~14節)

13~14節を読みましょう、「あなたがたが知っているとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした。そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり嫌悪したりせず、かえって、私を神の御使いであるかのように、キリスト・イエスであるかのように、受け入れてくれました。」と言って、自分とガラテヤ信徒たちが「ラブラブだった昔」を思い出させます。パウロがガラテヤ諸教会を開拓した時、彼等はとてもパウロに優しい態度で接してくれました。パウロがガラテヤ諸地域に長く留まったのは自分の病気の為、つまり次の目的地への旅行が不可能であった為だった、とその当時の状況を説明します。そしてその時ガラテヤ信徒は、パウロの肉体の弱さをからかったりする機会があったにも拘わらず、それをしなかったのです。それどころか、彼をキリストの身代わりであるかのように、また、天使であるかのように尊敬と丁重さとをもって受け入れてくれました。ガラテヤ信徒は自分の目を抉り出してもパウロに与えたいと願った程パウロを愛し、救いの喜びに溢れていました。多分、パウロの眼病を気遣ってくれた様子を思い出しているのでしょう。

3.ラブラブが敵対関係に(15~18節)

ところが何という変わりようでしょうか。ラブラブだった関係が敵対関係に変わってしまったと嘆いています。「天使のように扱われ6た私が今は敵のように見られている」それは、「真理を語った為」とパウロは考えています。16節の敵という言葉は、パウロが持っていた敵対心ではなく、敵と思われてしまったという受け身的な関係です。この様な劇的な変化を齎したのは、ユダヤ主義者たちの策謀によるものとパウロは断定します(17節)。純粋な福音を伝えるパウロを締め出そうというのが彼等の動機でした。

 

Ⅱ.パウロの願い(19~20節):キリストが形造られること

19 私の子供たち。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。20 私は今、あなたがたと一緒にいて、口調を変えて話せたらと思います。あなた方のことで私は途方に暮れているのです。」 

19~20節でパウロは、ガラテヤ信徒たちに対する熱い思いを吐露します。それは「彼らの中にキリストが形造られること」でした。自分が認められたいという願いではありません。彼らの中に「キリストが形造られる」という霊的成長と変化を期待しているのです。それでは、「キリストが形造られる」とはどんなことかを少し掘り下げて考えましょう。

1.人は神の像に造られた

人間は神の像(かたち)に造られました。その像とは「義と聖」です。エペソ4:23-24を引用します。「またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」これは、正にキリストが持っておられた品性です。ですから、キリストの形が造られるということは、私達が元々持っていたが、罪を犯したために失ってしまった性質を回復することなのです。人間は神に背き、神から離れた生活をするようになってから、最初の形を失ないました。エペソ2:1-3にはその悲惨な姿が描かれています。「あなた方は自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、その頃は、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私達もみな・・・自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望む儘を行ない、他の人たちと同じ様に、生まれ乍ら御怒りを受けるべき子らでした。」これが救われる前の人間の姿です。

2.回復のためのキリストの贖い

キリストの十字架の死は、私たちの内に清い品性を移しこむための備えでした。コロサイ1:21∼22には「あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが、今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。」と記されています。回復の始まりが救いの経験です。コロサイ3:9∼10には「あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。」と記されています。


3.キリストの形がゴール

私達の新しい命のゴールはキリストの形の成ること、つまり、内側に彼の品性が形成されることです。2コリント3:18には「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」と私たちクリスチャン生活の最高のゴールが示されています。

キリストと同じ形になる、という思想で思い出す小説があります。それは、ナサニエル・ホーソンが書いた「大きな石の顔」という短編です。ある村で大きな地震が起き、地震のためにその村外れの断崖に人間の顔をした巨大な岩影が生まれました。そしていつか、「大きな石の顔」にそっくりな偉人が現れるという伝説が生まれました。アーネストという少年は、お母さんからその伝説を聞いて、毎日岩を眺めながらその人が現れるのを楽しみにしていました。何年か経って、アーネスト少年は偉人が現れたという噂を耳にします。しかし、その村出身で巨万の富みを掴んだという富豪の顔は卑しい守銭奴の顔でした。その後も戦場で活躍した老将軍、熱弁をふるった大政治家など、岩と似ていると言われる人物が何度か現れましたが、少年の期待は見事に裏切られました。時は更に流れ、アーネストは年老いて行きました。がっかりしながらも、しかしアーネスト老人は、日暮れ時に岩を眺めながら祈りの時を持つ日課を続けていました。村人たちも、アーネスト老人の知恵を求めて集まるようになりました。或る夕方、夕陽を浴びながら話をしているアーネストの顔を見た村人が「アーネストさんと『大きな石の顔』が凄く似ているね。」と呟きました。その呟きが合唱のように広がって行きました。長い間、気高く愛に溢れた岩の顔を見ながら、日々育まれたアーネスト老人の顔は遂に岩と同じ雰囲気を漂わせる人物となっていたのでした。パウロが「鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行く」というのはこんな光景かなと感動させられたお話しです。


4.パウロの苦闘

さて、私たちの心にキリストの形を作るのは神ご自身ですが、その介助者としてパウロは「産みの苦しみ」をしていると言います。更にここでは「再び」という言葉で、かつて苦労したこと、今また苦労していることを示します。最初の苦労は、ガラテヤ信徒たちを異教の世界から回心に導く苦労を示します。パウロが、この手紙をローマの獄中から書いていることは以前にお話ししました。パウロはその牢獄にフラッとやってきた逃亡奴隷のオネシモを救いに導いたのですが、そのオネシモのことを「獄中で生んだわが子オネシモ」(ピレモン10)と呼んでいます。パウロは男でしたが、一人の魂を救いに導く苦労を出産に譬えているのです。更に、生まれた子どもをキリストの姿に導く苦労を、再度の出産に譬えている訳です。

「産みの苦しみ」とは一体何でしょうか。私は男ですから「産みの苦しみ」は経験していませんし、お産に立ち会ったこともありません。でも、それが大変な苦痛を伴うものであると言うことは分かります。さて、パウロが「再度の産みの苦しみ」と言っているのは、魂の為の真実な祈りと、必要な折々に与える勧告を含むものでしょう。私の中にキリストの形がなるために誰かが祈り、導いていて下さるという事実を知ると、私達は厳粛な思いにさせられます。更にローマ書は、私たちのために「呻くような思いで」執り成し給う聖霊について語っています。8:26、27を読みます、「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」私たちのために祈って下さる信仰の指導者、また、絶えず祈っておられる聖霊ご自身の事実を覚えますと、私たちはいい加減な信仰生活は出来なくなります。その御霊の祈りの方向に沿って私たち自身も同じ祈りをささげたいと思います。更に、私たちも兄弟姉妹のために祈るものとならせていただきましょう。

 

終りに

終わりたいと思います。まず私達自身のうちにキリストの形造られることを、真剣にまた謙って祈りましょう。こんな醜い自己中心の塊のような人間ではありますが、その内にキリストの姿が形成されるように祈りましょう。さらに、私達はお互いのためにキリストの心をもって取りなすものとなりましょう。

お祈りします。「父なる神様。あなたは、御子キリストを世に遣わし、全き贖いをなし遂げてくださいました。その贖いのゆえに、神の子どもとされたことを感謝します。しかし、私たちの内側には神の子どもに相応しくない性格や思いや行動が残っているのを感じます。どうか、聖霊のみ力によって、キリストの姿に変えられるように御力を下さい。主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン」

礼拝メッセージ

2020年5月3日
ローマ人への手紙8章1~11節

二つの道

 ローマ人への手紙8章はとても深い真理を扱っている書物ですので一つ一つのみ言葉が重い内容を含んでいます。神様が私たちに与えてくださった素晴らしい恵みをご一緒に学びたいと思います。

はじめに

8章は宝石のように輝く恵みの言葉がちりばめられていてとても素晴らしい章です。多くのクリスチャンたちに愛されてきました。
冒頭から私たちの心をわしづかみにする驚くべき宣言で始まります。
「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」

罪に定められることがない。しかも「決してありません」と書いてあります。何と幸いな宣言でしょう。パウロはいったい誰のことをさしてこのように言っているのでしょう?
「キリスト・イエスにある者」と書いてあります。私たちもその中に含まれているのでしょうか。

更に読み進めてゆきますと、また目を疑うような言葉が書いてあります。「なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです」
「解放」という言葉に思わず目が釘付けになります。そして神の恵みに対する期待がますます膨らみます。解放という言葉の前に「あなたを」と書いてあるからです。
この解放宣言はローマ人だけでなく、行徳駅前教会の私たちにも約束されています。何と幸いな約束でしょう。

すぐには信じられないかもしれません。特に信仰生活を長く送っていると自分の罪の根がどんなに深いか知っていますから、1節、2節の宣言は素直に受け取ることが難しいかもしれません。

私たちは先週、7章を読みました。そこには自分の罪の性質に絶望しているパウロの叫びがありました。
「私は自分のうちにすなわち自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに実行できないからです。私はしたいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。 私が自分でしたくないことをしているならそれを行っているのはもはや私ではなく私のうちに住んでいる罪です。
 そういうわけで善を行いたいと願っているその私に悪が存在するという原理を私は見出します。 私は内なる人としては神の律法を喜んでいますが私の体には異なる律法があってそれが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、体にある罪の律法のうちに虜にしていることが分かるのです。 私は本当に惨めな人間です。誰がこの死の体から私を救い出してくれるのでしょうか。」(18~24)

嘆き叫ぶパウロの姿と自分自身が重なったのは、私だけではないでしょう。パウロも自分と同じ悩みを抱えていたことを知って慰められたクリスチャンは少なくないと思います。

私たちは救われて罪を赦していただきました。内側に新しい性質も与えられています。しかし、それでもなお内側に悪に傾く性質が存在しています。心では聖書の教えに従いたい願いがあるけれど、実践することができない。誘惑に負けてしまう。これではいけないと思い、悔い改めて神様の前に赦していただくけれど、また失敗してしまう。何度同じパターンを繰り返してきたことでしょう。

これはまじめなクリスチャンの姿であって、未信者の方々の姿ではありません。救われたクリスチャンだからこそ、イエス様を愛し、主に従いたいという純粋な願いを持っています。でも、上手くゆかない。それで悩んでしまうのです。

先月、私たちは一日一章で使徒の働きを学びました。そこには聖霊が与えられて新しく変えられた使徒たちの姿がありました。主への賛美と喜びに溢れている姿が描かれていました。迫害にも屈することなく、彼らを通して働かれる聖霊の素晴らしいお働きがありました。次々と救われる人々が起こされていました。
これもまた、れっきとしたクリスチャンと教会の姿です。

しかし、同じイエス様を信じているクリスチャンなのに、何か違います。

また、パウロは8章37節で次のように宣言しています。「私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です」。
7章の悲痛な叫びとあまりにも対照的で喜びにあふれたこの宣言に、私たちは戸惑いを覚えます。7章のパウロと8章のパウロはまるで別人のようです。
いったい彼に何が起きているのでしょう。

そして8章の1節、2節のみことばは本当に私たちにも当てはまるのでしょうか。今朝は鍵となる言葉に注目しながらお話いたします。


Ⅰ 私と御霊


7章で何度も繰り返されている言葉があります、「私」と「自分」です。40回も出てきます。
そして、「私はしたいと思う」「自分でしたい」「自分でしたくない」という意志を表す表現が盛んに使われています。

一方、8 章では「私は」ということばは消えて、今度は「御霊が」「御霊によって」ということばが盛んに使われています。霊という言葉も含めると23回出てきます。

7章の「私」と「自分」は8章の「御霊」のおよそ2倍の回数です。
この数字は7章のクリスチャンと8章のクリスチャンの違いをよく表しています。

7章が描いているのは自分の頑張りで罪と戦うクリスチャンの姿です。彼は自分の力で神のみこころを行なおうとしますが、うまくゆきません。どうしてもその戦いに敗れてしまい、嘆き叫ぶのです。

私たちは主イエス・キリストを信じることによって、新しく生まれた者です。神のみこころは、私たちが新しいいのちの生活をすることです。
しかし 私たち自身の力によっては、そのような新しい生活をすることはできません。善をしたいと思っても、その力が内側にないのです。

ところが、7章のクリスチャンができなかったことを、8章のクリスチャンはできます。
8章は御霊によって罪に勝利するクリスチャンです。御霊に支配され、御霊に導かれているキリスト者の喜びの声を聞くことができます。

イエス様にあるいのちの御霊が信じる者の中にあって、その力が現わされるからです。私たちは 主イエスを信じて受け入れた瞬間に、聖霊という力強い助け手を自分の内に宿しているのです。

鍵は、自分の力ではなく、御霊の力によって生きることであることが分かります。このことを更に分かりやすく説明しているキーワードに注目しましょう。それは

Ⅱ 原理と法則


8章の2節をご覧ください。「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の律法(原理・法則)が、罪と死の律法(原理・法則)から、あなたを解放したか らです」
新改訳聖書2017で「律法」と訳している言葉は7章の21節の脚注に紹介されているようにギリシャ語で「ノモス」という言葉です。
これは、いつでも決まった働きをする力、法則や原理のことを表しています。

法則といえば、昔、物理の授業でフレミング左手の法則や右手の法則を学んだことを思い出します。磁場内の電流や運動の向きを示す法則だったと思います。40年ほど前に勉強しましたが、今もこの法則は変わっていません。

このローマ人への手紙が書かれたのは紀元1世紀ですが、今もいのちの御霊の原理と、罪と死の原理は変わっていません。

御霊は、絶えず私たちに霊的ないのちを豊かに与えようとします。人を生かします。
しかし罪と死は、それとは真逆な方向に働くのです。私たちの命を奪い、滅びに向かわせる力です。

エレベーターをイメージするとわかりやすいでしょうか。
エレベーターには二つの力が働いています。一つはエレベーターを下に落とそうとする力です。引力の法則です。もうひとつの力は、そのエレベーターを上に持ち上げようとする力です。その原動力は電力です。その電力が引力に打ち勝って、エレベーターを持ち上げ てくれるのです。

同様に、クリスチャンもこの世にいる限り、罪の力は働き続けます。けれども、いのちの御霊は罪に打ち勝って人を上に導こうとして働きます。御霊の力が働くことで、 罪の力は打ち消されるのです。ですから、御霊の力に導かれるならば、本当に新しい生活へと私たちを導 いてくれるのです。 

罪の力は、私たちが善をしたいという願いよりも大きな力です。人間には罪に打ち勝つ力はありません。
でも自分の無力さを認め、神様の前に「私は本当にみじめな人間です」と告白する者に御霊は「私が助けます」と言ってくださるのです。
御霊だけが、私たちの願っていることを実際に 行なわせることのできる唯一の方です。

私は善をしたい」と願って自力で頑張っているとできないのです。心のどこかで少しでも自分の力でできると思っていると、御霊の力を体験することはできません。もう一つのキーワードに注目しましょう。それは…

Ⅲ     肉  


肉という言葉は8章の3節から13節まで13回出てきます。体という言葉も合わせると15回です。

肉という言葉は体だけでなく、人の心や性質を表す意味でも聖書に何度か出てきます。
良い意味で使われることもある言葉ですが、ここでは、肉を御霊と対比させて、人間の罪深い性質や神様に逆らう性質を表しています。
人は堕落して罪に傾く肉の性質がありますので、神様に従う力が弱くなってしまいました。

クリスチャンはイエス様を信じて罪を赦されましたが、罪に傾きやすい肉の性質は残っています。だから、どんなに頑張っても罪に勝つことはできません。依然として神様に従う力は弱いままです。

しかし、3節に書いてある通り、神様はイエス様を通して十字架上で肉の性質である罪を処罰されたのです。罪のきよめを成し遂げられたのです。
ですから、もはや私たちは罪に定められることがありません。罪から解放され、もう罪に傾く性質に振り回されなくても済むのです。

4節をご覧ください。「それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たち」と書いてあります。御霊という新たな力をいただいて上に向かって進むことができるようになったのです。
もう一度申し上げますが、御霊の御働きと御力は変わることがありません。いのちの御霊の法則は今日も変わることなく私たちに与えられるのです。

8章の5節と7節を読んでみましょう。
「肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。肉の思いは死ですが御霊の思いは命と平安です。
なぜなら肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや従うことができないのです」

私たちの前に二つの道があります。
一つは肉に従う道です。これは御霊に従う道ではありません。自力で生きようとする道です。クリスチャンは救われたときに御霊が与えられているのですが、御霊に頼ろうとしないで自分で頑張ってしまうのです。御霊が押し入れがどこか片隅に追いやられ、これでは聖霊の御力が全く発揮されません。
そのため、肉に従う人は自分中心な考え方になります。自分の都合を優先します。自分の栄光を求めます。7章のクリスチャンが40回も「私」「私」「自分」「自分」と言っていたように、肉的なクリスチャンは自分がしたいことを考えます。
このようにいのちをもたらしてくださる御霊をないがしろにした生き方を続けていると、どうなるのでしょう。見かけはクリスチャンのように見えても、霊的な命は失われつつあるのではないでしょうか。これが肉に従う道です。

しかし、もう一つの道は御霊に従う道です。自分の無力さを認めて御霊により頼む生き方です。自分の力がゼロであることを十分知っていますから、そういう人は御霊が心と人生の中心におられます。当然、御霊の御働きは盛んになります。6節に「御霊の思いはいのちと平安です」と書いてありますから、御霊に従う人は霊的ないのちで溢れ、瑞々しく、穏やかで平安です。神との平和な関係を保ちます。

使徒たちもそうでした。かつてイエス様のためなら死も覚悟しますと言い切ったペテロは、いざイエス様が逮捕され、大祭司の前で裁かれたとき、3度もイエス様を知らないと言ってしまいました。
自分の弱さをいやというほど思い知らされたペテロは、肉により頼む道ではなく、御霊に従う道を祈り待ち望むようになります。
やがて聖霊がおくだりになると彼の内側で聖霊が働かれ、彼の説教を通して一度に三千人もの人々が救われます。彼は御霊に従う人生を送り、初代教会の中心的な役割を果たしました。その晩年に殉教の死を遂げます。ペテロは死に至るまで忠実に神に従ったのです。

ペテロもパウロも自分の無力さを知ることを通して変わりました。
私たちも御霊に従って進みましょう。
すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしが休ませてあげます、とイエス様は招いておられます。
これは自力で頑張り重荷を一人で背負って疲れ果ててしまう生き方ではなく、主に信頼して、重荷を主にゆだねて生きる道です。

暖かい空気が自然に上に上がってゆくように、御霊により頼んで生きる人は軽やかな人生を歩み始めます。
私たちはただ、主に信頼して御霊に従って生きる道を選びましょう。よろしくお願いしますと申し上げて進むとき、助け主との人三脚が始まります。
慣れるまで少し時間がかかるかもしれませんが、焦らず、恐れずに御霊にゆだねて進みましょう。




Mensaje de adoración

3 de mayo de 2020
Romanos 8: 1-11

Dos maneras


Romanos 8 es un libro que trata con una verdad muy profunda, por lo que cada palabra contiene contenido pesado. Quiero aprender junto con ustedes la maravillosa gracia que Dios nos ha dado.

Introduccion


El Capítulo 8 es un capítulo maravilloso con las palabras de gracia que brillan como joyas. Ha sido amado por muchos cristianos.
Desde el principio, comenzamos con una declaración sorprendente que mantiene nuestros corazones.
"Es por eso que nadie en Cristo Jesús nunca es condenado".

Nunca serás condenado. Además, dice "Nunca". ¡Qué declaración tan afortunada! ¿Quién dice exactamente Pablo de esta manera?
Dice "quién está en Cristo Jesús". ¿Estamos incluidos en eso?

A medida que leo más, hay palabras que me hacen dudar de mis ojos. "Porque la ley del Espíritu de Vida en Cristo Jesús te liberó de la ley del pecado y la muerte".
La palabra "liberación" me llama la atención. Y las expectativas de la gracia de Dios crecen aún más. Esto se debe a que "usted" está escrito antes de la palabra "liberación".
Esta Declaración de Liberación se promete no solo a los romanos sino también a nosotros en la Iglesia Gyotoku Ekimae. ¡Qué promesa tan afortunada!

Puede que no lo creas de inmediato. Sé cuán profundos son mis pecados, especialmente cuando tengo una larga vida de fe, por lo que puede ser difícil obedecer la proclamación de los versículos uno y dos.

Leímos el Capítulo 7 la semana pasada. Hubo un grito de desesperación de Pablo sobre la naturaleza de su pecado.
"Sé que el bien no vive en mí, en mi carne, porque siempre tengo el deseo de hacer el bien, pero no puedo hacerlo. Quiero hacer el bien Si haces lo que no quieres hacer, es el pecado de vivir en mí, ya no soy yo.
 Es por eso que encuentro el principio de que el mal existe en mí que quiere hacer el bien. Como hombre interior, estoy encantado con la ley de Dios, pero en mi cuerpo hay una ley diferente que desafía la ley de mi corazón. Puedes ver que estás cautivado por la ley de. Soy una persona realmente miserable. ¿Quién me rescatará de este cadáver? (18-24)

No soy el único que se superpuso con la figura gritona de Paul. Creo que muchos cristianos se consolaron al saber que Pablo tenía los mismos problemas que él.

Fuimos salvos y perdonamos nuestros pecados. Tiene una nueva calidad en su interior. Sin embargo, todavía hay una tendencia hacia el interiorismo. Tengo un deseo en mi corazón de seguir las enseñanzas de la Biblia, pero no puedo ponerlo en práctica. Pierdes la tentación. Creo que esto no es suficiente y me arrepentiré y perdonaré ante Dios, pero volveré a fallar. El mismo patrón se ha repetido muchas veces.

Esta es una figura cristiana seria, no incrédulos. Como somos cristianos salvos, amamos a Jesús y tenemos el deseo puro de obedecer al Señor. Pero no va bien. Eso me preocupa.

El mes pasado aprendimos el trabajo de los Apóstoles en un capítulo al día. Estaba la figura de los apóstoles recién transformados que recibieron el Espíritu Santo. La figura estaba llena de alabanza y alegría al Señor. Hubo una obra maravillosa del Espíritu Santo que trabajó a través de ellos sin ceder ante la persecución. Las personas que fueron salvadas una tras otra fueron despertadas.
Esta es también la figura de un cristiano y una iglesia.

Pero a pesar de que son cristianos que creen en el mismo Jesús, algo es diferente.

Además, Pablo declara lo siguiente a las 8:37. "Somos un ganador abrumador por los que nos aman".

Estamos confundidos por esta declaración alegre y abrumadora, que contrasta mucho con el triste grito del Capítulo 7. Pablo en el capítulo 7 y Pablo en el capítulo 8 parecen ser personas diferentes.
¿Qué demonios le está pasando?

¿Y las palabras en los versículos 1 y 2 del capítulo 8 realmente se aplican a nosotros? Esta mañana me enfocaré en las palabras clave.


礼拝メッセージ

2020年4月26日

ガラテヤ人への手紙4章1∼11節

時が満ちて

―福音とは何か⑦

 

主題聖句:「時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。」(ガラテヤ4:4)


 

はじめに

前回はガラテヤ書3章後半からクリスチャンの特権を4つの側面で学びました。どうぞ聖書を開きながら、復習してください。第一は3章26節「神の子ども」となること、第二は27節「キリストを着るもの」となったこと、第三は28節「キリストにあって一つ」となったもの、第四は29節「アブラハムの子孫として、その祝福を相続する者」になったことでした。

さて今日は4章に入ります。1∼11節は、アブラハムの子孫としてのクリスチャンの特権を更に詳しく説明します。ここも3つの分節からなっていますので、各分節を簡単に説明し、終わりましてから今日の主題聖句を少し詳しくお話しします。

 

 

Ⅰ.メシア来臨以前の人間の姿(1∼3節)

1∼3節は、メシア(キリスト)来臨以前の人間がどんな姿であったかを説明します。

 今では神の子ども・神の財産相続人となっているクリスチャンも、元は奴隷的状態でした。1∼2節には、「相続人は、全財産の持ち主なのに、子どもであるうちは奴隷と何も変わらず、父が定めた日までは、後見人や管理人の下にあります。」と記されている通りです。ここで使われている「子ども」という言葉は、3:26の「子ども」とは違う言葉です。3:26の「子ども」とは、ギリシア語でフイオイといって、大きくなった子どもです。4:1と3の「子ども」とは、ギリシア語でネエピオスといって幼児のことです。この子どもは、救われる前のクリスチャンのことで、「後見人や管理人」に下に奴隷状態であった事を示します。

3節で「この世の諸々の霊の下に奴隷となって」と言われているのは、誠の神の啓示によらない初歩的な宗教知識に縛られていること指します。ユダヤ人は律法を知っていながらそれを行えない、異邦人も一般的な道徳律を持っていながらそれを行えない、つまり、罪の奴隷であった状態のことです。

 

 

 

Ⅱ.キリストの恵が顕れた(4―7節)

第二の分節(4―7節)は、そんな暗い状態にいた人類に、キリストの恵みが福音として顕れたと語ります。4節の言葉は暗闇に輝く光のようです。「しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。」キリストが世に来られたクリスマスは、ある日突然起きた出来事ではありません。充分な準備期間が満たされて起きました。4節の「時が満ちて」とは文字通りには「時の盈満において」です。英訳では“When the time had fully come…”です。文語訳では「時滿つるに及びては…」です。何か重々しい言葉ですね。つまりキリストは、準備万端整った状態で来られたというのです。

紀元前1世紀のユダヤ人社会では、キリスト来臨に関する聖書の予言が成就する時が近いというメシア待望が盛り上がっていました。異邦人社会では、それまでの歴史で見なかったような世界帝国ローマが誕生していました。人々がそれを意識してはいなかったでしょうが、福音が届いたらそれを直ぐ世界中に広げられるインフラが整っていたのです。郵便や道路が世界をつなぎ、ギリシア語を簡素化コイネーというギリシア語が世界共通語として通用していました。ケアンズという教会歴史家は「キリスト教全史」の序論で、キリスト誕生に向けてユダヤ人社会も異邦人社会も、将棋の駒を整えるように、十分準備がなされていた、とその状況を詳しく説明しています。正に「時が満ちて」キリストは世に来られました。「時が満ちて」という言葉が私たちクリスチャンの生活にどんな意味を持つかは、この説教の終りの部分でもう一度お話しします。

4節で「女から生まれた」という表現で、永遠の神であられるキリストが、自然的な誕生を通して真の人となり給うたことを強調しています。何故人となられたのでしょうか。5節で「それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるため」だったと説明しています。「虎穴に入らずんば虎児を得ず」という諺のように、この危険なそして罪に満ちた世の真っただ中に生まれて下さり、罪に囚われている私たちを救ってくださいました。キリストは、ユダヤ人として生まれ、ユダヤ人として割礼を受け、宮に詣で、律法を学び、それを実践されました。そして最後には、律法を守ろうとしても守れないその原因である罪を背負って十字架につき、罪の奴隷であった私たちをその縄目から解放してくださいました。

6∼7節は、キリスト来臨の結果です。「そして、あなたがたが子であるので、神は『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。」つまり、私たちは、元々は神から離れていましたが、救いを受け入れることで、神の子(つまり、養子)となり、その特権、財産を頂いたのです。当時、家を重んじる古代ローマ社会では、養子縁組制度が大変一般的でした。その縁組みの時には、養父が養子にトーガ(上着)を着せて、その徴としました。それによって、養父の財産全部が養子のものとなるのです。ガラテヤ信徒は、異邦人として契約の外にあったが、今や神の約束の恵みを全面的に継承しています。

この養子縁組を個人的なものとするために働いて下さるのが御霊です。信じる者の心に宿られる御霊の第一の仕事は、私たちに神の子どもとしての確証を与えることです。6節「あなたがたは子であるので(子であるという事実の結果として)、神は『アバ(アラム語のおとうちゃん)父よ』と叫ぶ御子の御霊(キリストの内に働いておられたと同じ御霊)を、私たちの心に遣わして下さいました。」とあります。救われたクリスチャンは、聖霊の感動をもって、しかもごく自然に神様を「お父さん」と呼び始めるのです。家内は良く証しします。18歳の夏、高校生伝道団体のキャンプに出て、キリストを救い主と信じました。キリストを信じて一番嬉しかった事は、神がおられる、その神はお父さんである、という事実の発見だったそうです。彼女の肉の父は彼女が胎内にいる時に母を離婚して去って行きました。つまり肉の父を知らないで育ちました。けれども肉の父より遥かに勝る天のお父様が彼女の父となったのです。


Ⅲ.子としての特権を捨てているガラテヤ信徒(8∼11節)

第三の分節(8∼11節)は、「子としての特権を捨てているガラテヤ信徒」へのお叱りの言葉です。まず、8∼9節を読みましょう「あなたがたは、かつて神を知らなかったとき、本来神ではない神々の奴隷でした。しかし、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうして弱くて貧弱な、もろもろの霊に逆戻りして、もう一度改めて奴隷になりたいと願うのですか。」パウロはここで、ガラテヤ信徒の特権をもう一度思い出させます。彼らは「本来神でない神々(諸霊)の奴隷」だったのですが、今は、9節「神を知っている…むしろ(人間が神を知るのはおこがましい訳で、正確に言えば)神に知られている」のです。私たちもそうですね。私がキリストを選んだのではなく、キリストが私を選んで下さったのです。私たちの性格の良さとか真面目さとか毛並みの良さとかでなく、ただ恵みによって救いの中に選んで下さったのです。ですから私たちは、「ああ恵み、我にさえ及べり!」としか歌えません。

 問題は、そんな特権を得つつも、9節「どうしてあの(キリストの救いに比べて)弱くて貧弱な、諸々の霊に逆戻りしてもう一度改めてその奴隷になろうとする」ガラテヤ信徒の行動です。その愚かさを見て、パウロは悔しくて堪らないと地団駄踏んでいるのです。

その愚かさは、ガラテヤ信徒にとって異質であった筈のユダヤ主義を受け入れて福音を忘れてしまうことに表れています。10∼11節「あなたがたは、いろいろな日、月、季節、年を守っています。私は、あなたがたのために労したことが無駄になったのではないかと、あなたがたのことを心配しています。」活きたキリストとの交わりに生きる活きた信仰から、形式主義、伝統主義に逆戻りするガラテヤ信徒の姿がパウロにはとても悲しかったのです。どうか私たちもこの様な、形を重んじる「死んだ伝統主義」に陥ることなく、活きた主を仰ぐ生きた信仰をもって単純な歩みを全うしたいと思います。

 

おわりに:「時が満ちて」という言葉の思い巡らし

最後に、もう一度「時が満ちて」というパウロの言葉に心を留めましょう。神はこの全世界の救いの為に「定めの時」を持ちました。世界の流れをそれに向けて準備し、キリストを遣わし、その十字架と復活という形で救いを実現なさいました。

同じように、私たち個人々々に対しても、主は救いと助けを私たちの人生全体に計画しておられます。人間の浅はかな視点と時計から見ると物事は何も動いていないように見える時もあります。私の人生は、何の意味もなく始まって、終わってしまうように思える時もあります。しかし、私たち一人一人の人生には、神の確かなご計画・目的があり、その実現に向かって進んでいるのです。神の為さることは時に適って美しい、と聖言にありますように、神の時計に従って物事は進むものです。私たちの側で必要なのは、神の時を待ち望む忍耐であり、神の最善を信頼する信仰であり、事が起きた時にそれを主のお働きと認める洞察力です。

今私はコロナの騒ぎのために、家で閉じこもる生活を送っています。その間、古い日記を読み返しつつ、生涯の「回想録」なるものを認めつつあります。その歩みの一歩一歩について、「時が満ちて」一つのことが終わり、そして次のものが始まるという神の時をしみじみ感じさせられています。「時が満ちて」という素晴らしい言葉の背後にある神のご計画、神の御手の動きを信じましょう。それを信じて、主に依りすがりつつ歩もうではありませんか。

 

終りの祈り

お祈りします。「父なる神様。あなたは、時が満ちてキリストを遣わし、私たちの救いをなし遂げてくださいました。そのように私たちの時も支配していて下さることを感謝します。私たちは時々、何故こんな苦しい所を通るのだろうと疑問を感じてしまうこともあります。特に今はコロナウイルスの禍がどうして世界を覆っているのかと疑問を持ってしまいがちです。しかし、あなたは全ての時と歴史を支配し給うお方です。時が満ちてすべてを動かし給うあなたのみ手を信じて感謝します。主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン」



 


Mensaje de adoración

26 de abril de 2020

Gálatas 4: 1-11

Lleno de tiempo
¿Qué es el Evangelio?

Versículo temático: "Con el tiempo, Dios envió a su Hijo como un hombre nacido de una mujer, bajo la ley" (Gálatas 4: 4).

Introduccion

La última vez, aprendimos el privilegio de los cristianos en cuatro aspectos de Gálatas en la segunda mitad. Por favor revise mientras abre la Biblia. El primero es convertirse en un hijo de Dios en el Capítulo 3:26, el segundo es "llevar a Cristo" en el versículo 27, el tercero es convertirse en uno en Cristo, 28. El cuarto se convertiría en el versículo 29, "los descendientes de Abraham que heredan las bendiciones".
Bueno, hoy estamos en el capítulo 4. Los versículos 1-11 explican más el privilegio de los cristianos como descendientes de Abraham. Nuevamente, esto se compone de tres segmentos, por lo que explicaré brevemente cada segmento, y cuando termine, hablaré un poco sobre el verso del tema de hoy.
 
 

Ⅰ Figura humana antes de la llegada del Mesías (versículos 1-3)

Los versículos 1 al 3 explican cómo era un humano antes de que viniera el Mesías (Cristo).
 Los cristianos, que ahora son hijos de Dios y herederos de la propiedad de Dios, fueron originalmente esclavos. En los versículos 1-2, "los herederos son los dueños de todas las propiedades, pero aunque son niños, no son más que esclavos, y están bajo guardianes y cuidadores hasta la fecha designada por su padre". Eso es correcto La palabra "niño" usada aquí es diferente de "niño" en 3:26. El "niño" en 3:26 es un niño adulto llamado "Fuioi" en griego. Los 4: 1 y 3 "niños" son las palabras griegas para Nepheus, un bebé. Este niño es cristiano antes de ser salvado, e indica a un "tutor o cuidador" que estaba bajo la esclavitud.
En el versículo tres, la frase "conviértete en esclavo de los espíritus del mundo" se refiere a estar vinculado al conocimiento religioso rudimentario que no se basa en la revelación de Dios de la verdad. El judío conoce la ley pero no puede hacerlo, y los gentiles tienen la ley moral general pero no pueden hacerlo, es decir, eran esclavos del pecado.
 
 
 

II La gracia de Cristo fue revelada (vs. 4-7)

El segundo segmento (versículos 4-7) nos dice que la gracia de Cristo fue revelada como un evangelio a la humanidad en un estado tan oscuro. Las palabras en el versículo 4 son como la luz que brilla en la oscuridad. "Pero con el tiempo, Dios envió a su Hijo como nacido de una mujer, como bajo la ley". La Navidad cuando Cristo vino al mundo fue un acontecimiento repentino un día. No hay Me levanté después de tener suficiente tiempo de preparación. En el "versículo 4", "el tiempo está lleno" es literalmente "en el momento del tiempo". La traducción al inglés es "Cuando llegó el momento ...". En la traducción del texto, es "Totsuki Tsuruni ...". Eso es algo pesado. En otras palabras, Cristo vino en un estado listo.
En la sociedad judía del siglo I a. C., la aspiración mesiánica estaba provocando que la profecía de la Biblia acerca de la venida de Cristo pronto se cumpliría. En la sociedad gentil, nació el imperio mundial Roma, que no se había visto en la historia hasta entonces. La gente no lo habría notado, pero tenían la infraestructura para difundirlo al mundo una vez que llegara el evangelio. Los postes y las carreteras conectan el mundo, simplificando el griego La palabra griega Koine era el idioma universal. Cairns, un historiador de la iglesia, fue presentado en la introducción a la "Historia del cristianismo", en la que las sociedades judías y gentiles estaban bien preparadas para preparar piezas de shogi para el nacimiento de Cristo. Explicando Simplemente "lleno de tiempo" Cristo vino al mundo. Reiteraré lo que significa la palabra "tiempo completo" en nuestras vidas cristianas al final de este sermón.
La expresión "nacido de una mujer" en el versículo 4 enfatiza que el Dios eterno, Cristo, se convirtió en una persona verdadera a través del nacimiento natural. ¿Por qué te convertiste en una persona? Explique en el versículo cinco que era "redimir a los que están bajo la ley y recibir nuestra condición de niños". Él nació en medio de este mundo peligroso y pecaminoso, como el proverbio: "Si no entras en un agujero de tigre, no obtienes un tigre", nos salvó a los que estamos atrapados en el pecado. . Cristo nació como judío, circuncidado como judío, y en el templo aprendió la ley y la practicó. Y al final, trató de guardar la ley, pero cargó con el pecado, que es la causa que no pudo guardar, en la cruz y nos libró de la soga que fuimos esclavos del pecado.
Los versículos 6-7 son el resultado de la venida de Cristo. "Y, como ustedes son niños, Dios ha enviado a nuestros corazones al Espíritu del Hijo, quien grita:" Aba, padre ", por lo que ya no son esclavos, sino niños. Si es así, somos herederos de Dios ”. Es decir, aunque originalmente estábamos separados de Dios, al aceptar la salvación, nos convertimos en hijos de Dios (es decir, hijos adoptivos) y recibimos su privilegio y propiedad. Es. En ese momento, el sistema de adopción era muy común en las antiguas sociedades romanas. En el momento de esa conexión, el padre adoptivo colocó la toga (chaqueta) en el niño adoptado y lo hizo una señal. Como resultado, todos los bienes del padre adoptivo se convierten en los del niño adoptado. Los gálatas, que estaban fuera del pacto como gentiles, ahora están heredando completamente la gracia de la promesa de Dios.
Es el Espíritu quien trabaja para hacer que esta adopción sea personal. La primera tarea del Espíritu Santo en el corazón del creyente es darnos confirmación como hijos de Dios. Versículo 6 "Porque ustedes son niños (como resultado del hecho de que son niños), Dios grita:" Oh, Aba (Oh chan) padre, "El Espíritu de Dios (trabajando en Cristo Él envió el mismo espíritu que fue dado) a nuestros corazones ". El cristiano salvado comienza a llamar a Dios "Papá" con la inspiración del Espíritu Santo, y muy naturalmente. Mi esposa da un buen testimonio. En el verano de 18, fui a un campamento grupal misionero de la escuela secundaria y creí en Cristo como el Salvador. Lo más feliz de creer en Cristo fue el descubrimiento del hecho de que Dios es y de que Dios es un padre. Su padre carnal se divorció y dejó a su madre mientras ella estaba en el útero. En otras palabras, crecí sin conocer a mi padre carnal. Pero un padre celestial, muy superior al padre de carne, se convirtió en su padre.

Ⅲ. Gálatas que abandonan sus privilegios como niños (versículos 8-11)

El tercer segmento (versículos 8 al 11) es una palabra de regaño para "un gálata que ha abandonado su privilegio de niño". Primero, lea los versículos 8-9, "Cuando no conocías a Dios, eras esclavo de dioses que originalmente no eran Dios. Pero ahora conoces a Dios, pero no a Dios ¿Por qué quieres volver a tus espíritus débiles y pobres y volver a ser esclavo? Paul me recuerda el privilegio de los gálatas aquí. Eran "esclavos de dioses (espíritus) que originalmente no eran dioses", pero ahora son el versículo 9 "Conocer a Dios ... más bien (los seres humanos conocer a Dios es una razón noble, para ser exactos) Conocido por Dios ". Nosotros también lo somos. Cristo no me eligió, pero Cristo me eligió a mí. Él nos eligió para salvación solo por gracia, no por nuestra buena personalidad, seriedad o coraje. Por lo tanto, solo podemos cantar "¡Oh, gracia, hasta alcanzarme!"
 El problema es la acción de los gálatas, quienes, a pesar de tener tales privilegios, versículo 9 "¿Por qué volvemos a esos espíritus débiles (en comparación con la salvación de Cristo) y volvemos a los espíritus nuevamente para volvernos sus esclavos?" Al ver esa tontería, Paul lamenta y duda en unirse al suelo.
La estupidez se refleja en la aceptación del Evangelio, que se suponía que era extraño para los creyentes de Galacia. Versículos diez a once "Estás observando varios días, meses, estaciones y años. Me pregunto si tus esfuerzos se han desperdiciado. Fue muy triste para Pablo ver a los gálatas que vuelven al formalismo y al tradicionalismo desde su fe viva en su comunión con el Cristo vivo. Nos gustaría completar un curso simple con una fe viva en el Señor vivo, sin caer en tal forma de "tradicionalismo muerto".
 

Declaración final: Meditando en la palabra "lleno de tiempo"

Finalmente, una vez más, tengamos en cuenta las palabras de Paul: "El tiempo está lleno". Dios tiene un "tiempo definido" para la salvación de todo este mundo. Preparado para el flujo del mundo, envió a Cristo y realizó la salvación en la forma de su cruz y resurrección.
Del mismo modo, para nosotros los individuos, el Señor planea la salvación y la ayuda a lo largo de nuestras vidas. Desde la perspectiva superficial de un ser humano, y desde un reloj, las cosas a veces parecen moverse. A veces mi vida parece comenzar y terminar sin ningún significado. Sin embargo, cada uno de nosotros tiene un cierto plan y propósito para Dios, y estamos avanzando hacia la realización de eso. Como las Escrituras dicen que para lo que Dios trabaja a veces es hermoso, las cosas van de acuerdo con el reloj de Dios. Lo que necesitamos es paciencia para el tiempo de Dios, fe para confiar en lo mejor de Dios y perspicacia para reconocerlo como la obra del Señor cuando las cosas suceden.
En este momento estoy viviendo en un hogar lejos del hogar debido al alboroto de Corona. Mientras tanto, mientras leo el viejo diario, admito lo que es un "recuerdo" de toda la vida. Cada paso del camino me hace sentir el tiempo de Dios cuando "el tiempo está lleno", una cosa termina y comienza la siguiente. Cree en el plan de Dios, el movimiento de la mano de Dios, detrás de la maravillosa palabra "El tiempo está lleno". Creemos en ello y caminemos mientras nos apoyamos en el Señor.
 

Terminar la oración

Rezo "Dios Padre. Has enviado a Cristo a tiempo y has logrado nuestra salvación. Gracias por controlarnos en nuestro tiempo". A veces, me pregunto por qué estoy pasando por un lugar tan doloroso, especialmente ahora me pregunto por qué el hematoma del coronavirus está cubriendo el mundo. El que gobierna y alimenta el tiempo y la historia. Te agradezco por creer en tu mano, que llenará todo con tiempo y moverá todo. Oración en el Santo Nombre del Señor Jesucristo. Amén ".

礼拝メッセージ

2020年4月19日 

信仰によって神の子となる 

―福音とは何か⑥ 

 ガラテヤ人への手紙 3章15∼ 29節

 

行徳駅前教会の皆さん、おはようございます。イースターをそれぞれのご家庭で祝われたことでしょう。今日も変わらず生き給う主が皆さん一人一人を祝し、守ってくださることを信じます。一言お祈りします。「父なる神様、あなたのみ名を讃美致します。コロナの禍によって全世界が苦しんでいる最中ではありますが、心を一つにあなたのみ力を仰ぎ、あなたの恵みを感謝します。私たちは一つの場所で共に礼拝することは出来ませんが、今それぞれの場所で心を一つにしてあなたを讃美し、礼拝いたします。世界中の教会も同じような状況で分散した形で礼拝を守っていますが、あなたはその礼拝を受け入れ、そしてキリスト者たちに勇気と力を与えてくださるよう祈ります。主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン。」 

 

はじめに 

受難週やイースターで特別テーマが続きましたが、今日からガラテヤ書に戻ります。前回は3章前半から、律法主義に陥ったガラテヤ信徒に対して、救いというものは、その始めも完成も、自分の努力によるのでなく徹頭徹尾信仰によるのだというパウロの強調を学びました。特に9節の「信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。」を中心にお話ししました。 

さて、今日は3章後半に入ります。パウロの説明は、やや分かり難い面がありますが、私なりにできるだけ分かり易くお話ししたいと思います。ここは三つの分節で成り立っていますので、その一つ一つの要点をお話しします。どうか聖書を開き、各節を目で追って聞いてください。 

 

Ⅰ.約束は律法より勝れている(15~18節) 

第一の分節15~18節で、ここでは「約束は律法より勝れている」ことを強調しています。この4か節の中で、契約とか約束という言葉が6回も出てきます。印を付けてみましょう。15節「人間の契約でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしません」、16節「約束は、アブラハムとその子孫に告げられました。」という具合です。ここで繰り返されている「約束」とは、アブラハムを通して全人類が祝福を受けるという約束です。パウロは、その約束が時を越えて有効だと言います。しかも、その約束は「アブラハムとそのひとりの子孫」つまりアブラハムの2千年後のキリストに与えられた、というのです。そして、そのキリスト誕生の2千年後にいる私たちにも有効です。 

BC2千年頃に生きていたアブラハムに対して与えられた約束は、その430年後、つまりモーセの時代に与えられた律法によって変更されたり、無効になったりはしませんでした。律法を強調するユダヤ主義者は「パウロが説く福音は伝統的なユダヤ教からの逸脱だ」と非難したのに対して、パウロは「違う。ユダヤ主義者こそ信仰による救いというアブラハムが頂いた約束からの逸脱だ」と言っている訳です。人間が救われるのは信仰だけによるという真理を立証するために、「先祖アブラハムは信仰によって義とされたではないか」と語ったのです。 


Ⅱ.律法の役割(19~22節) 

第二の分節は19~22節です。これは19節「それでは、律法とは何でしょうか。」という質問から始まっていますね。前の分節で「救いは信仰による」という「約束」が大切で、「律法」は後から加えられたものだと言ったパウロは、「それでは律法にはどんな役割があるのか?」と質問し、それに自分で答えているのです。律法の役割について、パウロは三つのイメージで説明します。 

1.警官 

第一のイメージは、警官です。19節に「律法とは・・・違反を示すために付け加えられた」とありますね。丁度スピード違反をしたときにパトカーが追跡して来て、「あなたは120キロで走っていました。これは制限速度の20キロオーバーです。」とメーターを示すようなものです。私達の言葉や行いや思いが神の御心に適わない違反行為であることを示すのは律法の務めです。つまり、律法の目的は、罪が罪であることを明確にすることです。 

2.牢屋の番人 

 律法の第二のイメージは「牢屋の番人」です。22節でパウロは「聖書は、すべてのものを(囚人のように〉罪の下に閉じ込めました」と言います。私達が犯した罪を自覚し、罪の結果として神が与える罰を恐れる気持ちを牢屋に例えていますが、その番人が律法だというのです。ローマ7:7∼21には「善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがない・・・したくない悪を行なって」いる人間の苦しみが描かれています。そして最後にパウロは「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の体から、私を救い出してくれるのでしょうか。」と叫びます。律法は私たちが罪人であることを悟らせ、罪の中に縛られた人間であることを明確にしてくれます。 

3.養育係 

24節には「律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」と記されています。律法の役割の第3は「養育係」です。昔、ローマの金持は家庭教師を雇って居ましたが、律法はその家庭教師のようだ、と言うのです。「律法」という家庭教師は、人間がどんなに努力しても神の標準に到達できないものであることを徹底的に悟らせ、律法によらない救い、つまりキリストの身代わりによってのみ罪が赦され、心が清くされることを悟らせる、とパウロは言うのです。 

私たちのケースを考えてみましょう。私たちはどんなきっかけで教会に来るようになったのでしょうか。私たちの多くは、まじめな生活をしたい、良い人間になりたい、という動機から救いを求めて教会に来たのではないでしょうか。それはとても良い動機です。でも、その真面目さを極めた所に救いがあるのではなく、その求道の過程で、本当に自分の弱さ、醜さ、神の義の厳しさを悟って、キリストの贖いの価値が分かるというケースが多いように思います。言い換えれば、神の律法を真面目に行おうとするその気持ちは尊いけれども、その先に救いがあるのではなく、律法を行えない自分に気付かされることが救いのきっかけとなるのです。パウロも律法を一生懸命守ろうと人一倍熱心に励んだけれども、それに行き詰まり、信仰による救いに目覚めたのです。その意味で、律法は「信仰による救い」に私たちを導く家庭教師なのです。 

 

Ⅲ. 律法からの釈放(25-29節) 

25-29節は第三の分節で、そのテーマは「律法からの釈放」です。25節「しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。」この「信仰が現れた」とは、律法の準備的役割が終わって、信仰による救い、つまり新約の時代に入ったことを表します。この最後の分節は、救われたクリスチャンの素晴らしい立場を4つの表現で言い表しています。 

1.神の子ども 

その第一は「神の子ども」です。26節を読みます。「あなた方は皆、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。」パウロは、救われた異邦人クリスチャンのことを「神の子ども」と呼びます。この「子ども」(ギリシア語でフイオイ) は保護者を必要としない、育ちあがった子供のことで、幼少期の子ども(ギリシア語でテクナ)とは違ったニュアンスです。「子ども」とは親と同じDNAを持ち、同じような性質を持つ者、つまり神の性質を受け継ぐ者なのです。ヨハネ1:12には「この方(キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」と記されています。神の子どもとなることは、親の財産を受け継ぐ者となり、子どもとしての特権、親の愛を存分に受けるものとなったという意味です。私たちは皆神の子どもなのです。なんと素晴らしいことでしょうか。 

2.キリストを着た者 

第二の表現は「キリストを着た者」です。27節を読みます。「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。」この表現もキリストとの近しい関係を示します。私達はバプテスマを受けたとき、キリストに属する(キリストの所有となる、キリストと一体化した)者となりました。1コリント10:1〜5では「私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。」と記されています。私達はバプテスマを受けたとき、キリストと一体化し、キリストに属する者となりました。イスラエルの民が紅海を渡るあの奇蹟的出来事を通して、それまでは、やや不明確であったモーセの指導権をはっきりと認めたと同じように、私達もバプテスマの水を潜り抜けた経験を通してキリストの所有となったのです。 

そしてキリストのものとなると、彼を「着る」のです。「キリストを着る」とは、キリストの性格・感情そしてお働きを自分のものとすることです。この着物の例えは、元々自分の物でなかったものを、自分の体の一部にしてしまうことを表わします。キリストと共に生き、動き、あることが、「着る」という密接な関係で示されるのです。 

着るものについて、面白いエピソードを聞いたことがあります。2百年程前のプロシャ(今のドイツ)にモルトケという将軍がいました。連戦連勝で、人々の人気も抜群、彼の行く所々で常に拍手と喝采が待っていました。ある日モルトケが平服を着て町を散歩したら、不思議な事に誰も振り向きません。すっかり気落ちして家に帰ったモルトケは、洋服箪笥の軍服に向かってこう言ったそうです、「俺がモルトケか、おまえがモルトケか?」と。こんな風に、着物というものは、着る人の在り方を決めてしまうものなのでしょう。私達は軍服ではない、キリストを普段着として着ながら生活しているものです。 

3.キリスト信者は一体 

第三の表現は「一体」です。28節を読みましょう。「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。」異なる人種、背景の人々がキリストにあって一つとなる、一人ひとりがキリストと一体化することで互いが一体化する、これが教会の一致です。そこには人種差別も、性差別も、社会背景による差別も偏見もありません。人間の中にある癒しがたい差別意識、偏見は心の中に刷り込まれた無意識の世界に強く働いていますから、これを克服するには聖霊の助けを必要とします。しかし、それを克服する芽はクリスチャンになった時に生え始めるのです。クリスチャンはキリストにあって一つです。それは一人ひとりがキリストに一体化することからくる当然の結果です。なぜなら、救いの条件は、人種的・社会的背景、人間的努力、教育、道徳的真面目さ等に依らないで、キリストへの単純な信仰だけですから、お互いはその面では全く平等です。 

20年前、沖縄で日本伝道会議が行われました。教派・教団・教会、更には出身地の異なる人々が「イチャリバチョーデー」(出会えば兄弟)のスピリットで真の一体感を持ち、交わりが許されました。その時、2千人の出席者によってこのような宣言が採択されました。紹介します。「キリストの救いにあずかった私たちは、教会、つまり、愛をもって仕え合う共同体を形成します。それは、三位一体の神を証しし、キリストの福音を明らかにするもので、憎悪や差別、対立や紛争によって損なわれた社会に対して、私達は教会を和解の共同体として現わしていきます。・・・教会員同士、教職者同士、教職者と教会員、男性会員と女性会員、年長者と若年者が互いに仕え合い、和解の福音の豊かさを証しして行きます。教会の一体性は、教会と超教派諸団体との間・・にも求められます。閉鎖性や他を顧みない態度を捨て、互いに納得できるルールを設定し、積極的な協力関係を築く事を目指します。」 

4.アブラハムの祝福の相続人 

第四の表現は「相続人」です。29節を読みましょう。「あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」アブラハムは信仰によって義とされました。従って割礼を受けている者もいない者も等しくキリストを信じるものは彼の子孫です。この信仰に焦点を当てることによって、アブラハムは、全ての人を子孫とする道を開きました。律法を守ることによってアブラハムの子孫になるのではありません。私たちは、信仰によってアブラハムに与えられた祝福を継ぐものとなりました。 

 

終りに 

私達がこんなすばらしい特権を与えられていることを感謝しましょう。その特権を値高く見積もりたいと思います。それにふさわしく生きましょう。特に教会の一体性、一致を熱心に保ちましょう。コロナウイルスによって私たちは、教会での礼拝を共にすることのできない辛い環境にありますが、それだから一層、互いに祈り合い、助け合う真の意味での愛の共同体を祈り求め、実践しましょう。 

お祈りします。「父なる神様。何の価値もない私たちを、キリストの尊い贖いを通して、あなたの子どもとして下さったことを感謝いたします。その恵みをより深く知り、その恵みを頂くにふさわしく生きるものとしてください。主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン 

祈祷会メッセージ

パウロの裁判

フェリクスと

パウロの生き方

2020.4.22 祈祷会 
使徒の働き24章~25章

https://www.youtube.com/watch?v=rnnuYVIhfNk&t=76s

はじめに

当時の裁判や登場人物について学ぶことを通して、聖書を一読しただけでは気づかなかったものが見えてきます。

今日は総督フェリクスの人物像に迫ります。

彼の生き方とパウロの生き方を通して見えてくる大切なメッセージを捉えましょう。


アントニウス・フェリクス

彼は紀元52年から59年までユダヤの総督でした

(かつてイエス様の裁判に関わったポンテオ・ピラトも同じユダヤの総督です)

フェリクスはかつて奴隷でしたがローマ皇帝(クラウデオ帝)の母アントニアという人の力によって解放され、自由になることができました。

彼は奴隷がローマ属州の総督となった最初の人物です。


ところが彼の性格や生き方は、聖書が教えている本当の自由とはかけ離れたものでした。


フェリクスの生き方~目的のために手段を択ばない


彼は自分の地位を上げるために、3回も政略結婚をしました。


ユダヤの総督として治安を維持するために、平気で武力を行使して人を殺す人物でした。

特に、ローマに反抗する者には厳しく残酷な対応をしました。


まことの権力者は、何にも縛られることなく正しく選択し、正しい政治を行います。
しかし、彼は罪に支配されて奴隷のままだったのです。


フェリクスの私生活~罪の奴隷


彼が罪の奴隷であった様子が24節と25節から伺えます。

彼と妻ドルシラはパウロが語る「キリスト・イエスに対する信仰」について関心を示して話を聞いていました。

しかし、彼らは信仰とは裏腹な非常に罪深い生活を送っていたのです。


フェリクスの妻ドルシラ~生い立ち~


ここで彼の妻ドルシラについてご紹介します。


•彼女はヘロデ王家の血筋で、使徒ヤコブを迫害したアグリッパ1世の末娘です。


•25章13節に登場する「アグリッパ王」は、アグリッパ1世の息子で
 アグリッパ2世。彼女の兄です。


•彼に同行したベルニケは、彼の1歳下の妹です。ドルシラの姉です。


アグリッパ2世とベルニケの関係


ここで彼らの関係も触れておきましょう。


この頃、彼らは兄妹で同棲していたのです。ベルニケは初婚の夫(彼女の叔父)に先立たれ、兄のアグリッパ2世の許に身を寄せることにしたのですが、いつしか同居が同棲になり、兄妹で忌むべき関係を持つようになったのです。

フェリクスの妻ドルシラは、彼らの妹です。


フェリクスとドルシラの結婚歴

ドルシラは彼の3番目の妻で美人でした。

彼女はもともとシリアのエメサという国の王「アジザス」の妻でした。


ところがフェリクスは美しいドルシラに惹かれるようになり、彼女を口説き、 アジザス王からドルシラを奪ってしまったのです。


こうして二人は公然と不倫生活を送るようになりました。パウロはこの事実を知っていたのでしょうか。
24章の25節で「正義と節制と来るべきさばきについて論じたので」す。それでフェリクスは恐ろしくなったわけです。「今は帰ってよい。折を見て、また呼ぶことにする」と言いました。


パウロに対する フェリクスの保身的な対応


このように彼は目的のために手段を択ばない身勝手な人でしたので、 パウロに対しても彼が無罪であることを知りながら自分の保身のために彼を二年間も監禁させました。


パウロを無罪とすればユダヤ人たちから嫌われます。
有罪とすればローマ市民であるパウロに正しい裁判をしなかった、と非難を受けるかもしれません。

自分の身を守るためには、判決を伸ばすことが必要だったのです。


フェリクスの下心と罷免


彼は何度もパウロを呼び出して語り合いますが、それは信じるためではなく「金をもらいたい下心があった」からでした。


総督が被告から賄賂をもらうのは違法です。このように彼の行政は酷いものでした。
二年後、皇帝ネロは彼を罷免します。

25章に新しいユダヤ総督として登場するフェストウスは、彼の後任です。

残念ながらフェストウスもフェリクスと同じ道を歩み「ユダヤ人の機嫌を取ろうと」してパウロの無罪判決を引き延ばします(25章9節以降)。


フェリクスが失った機会


フェリクスはパウロの無罪判決を延期しただけでなく「今は帰ってよい。折を見て、また呼ぶことにする」と言って改心の決断も伸ばしてしまいました。

やがて彼は罷免されてパウロに会う機会を失うことになります。


それだけでなく彼も妻も回心する機会を失ったのです。
 罪から解放されてまことの自由を得るチャンスを……。


聖書は機会を生かして用いることを教えていますが、機会を失うと二度と訪れないことがあることをこの出来事は教えています。


パウロの自由


一方、パウロは囚人になっても心は自由でした。


彼は24章14節~16節で語っています。
「私は律法にかなうことと預言者たちの書に書かれていることを全て信じています。また私は正しいものも正しくないものも復活すると言う 望みを神に対して抱いています 。
そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない 良心 を保つように最善を尽くしています。」


•優柔不断なフェリクスが持つことができなかった信仰をパウロは持っていました。


•罪人のフェリクスが抱くことができなかった復活の希望をパウロは抱いていました。


•罪の奴隷であったフェリクスが行うことができなかった神と人の前に最善を尽くす生き方をパウロは持っていました。


•フェリクスが持つことができなかった自由を パウロは持っていました。



機会を生かしたパウロ


彼は拘束されていましたが、心は自由でした。裁判さえも主を証しする機会として用いたのです。


私たちは今、教会に集まることができません。外出もままなりません。
この状況がいつまで続くだろう?と不安になるかもしれません。


しかし、何もできないのではありません。今だからこそ出来ることがあります。
 一緒に過ごす家族を愛することができます。
 希望があることを伝えることができます。
 とりなして祈ることができます。
 聖書をじっくり学ぶことができます


 終わりに


フェリクスは罪から離れる決断をしなかったため、パウロが語る正義と節制と来るべきさばきの教えを恐れました。

彼は自由を得る機会を失いました。


しかし、私たちはパウロのように今、与えられている機会を失わないように大切なことを先延ばしにしないようにしたいものです。

正しく実践できるように祈りましょう。

求めたことは得たと信じて実行していきましょう。